反復と繰り返し
― 微粒子の美学・記号学 ―
小松原 俊一
無限の、連続する広がりの極限として、限りなく小さな、永遠の広がりがある。その広がりを私たちは「微粒子」と呼ぶ。従って、微粒子は連続する、無限の広がりをその近傍としている。無限の、連続する広がりには、そのような無数の微粒子が互いに距離を持って存在し、運動している。それ故、微粒子たちの運動の第一の特徴は、それらが互いに永遠に近づき合うか、永遠に遠ざかり合うということである。なぜならば、いずれの微粒子も限りなく小さな広がりであり、かつ、いずれの微粒子の近傍も連続する、無限の広がりであるため、微粒子どうしはどこまでも近づくことが可能であり、また、どこまでも遠ざかることが可能だからである。ところで、思考属性とは異なり、延長属性には次の特徴がある。即ち、延長するもの(広がり)には空虚がなく、また、ある広がりを別の広がりが占めることは出来ない。それ故、ある微粒子が移動すると、その広がりを別の微粒子が満たす。無数の微粒子が運動し、互いに相手の場所を満たし合っている。こうして、微粒子どうしは無限に相互作用している。また、微粒子たちの運動も、それらが互いに近づき合うか、遠ざかり合うというだけではない。運動する微粒子たちの速さと方向が同じものになるのならば、それらの微粒子は互いに静止していることになる。そして、その無限の相互作用から、一群の微粒子どうしが単に近づき合うのでもなく、単に遠ざかり合うのでもなく、単に静止しているのでもないとき、その微粒子群の運動や静止は微粒子の運動の第一特徴や静止からの偏差をなす。無限の、連続する広がりでは絶えず、至る所で、こうした偏差が生じている。そして、それらの偏差の中から、その微粒子群の運動や静止が繰り返されるものや、その繰り返しからの偏差を巻き込んで反復するものが生じる。
無限の、連続する広がりに微粒子たちの運動や静止の偏差が生じるとき、その微粒子群の占める広がりが延長の有限様態である。もしも延長の有限様態が生成していなかったのならば、即ち、延長の無限様態(無限の、連続する広がり)と極限様態(微粒子)しか存在していなかったのならば、広がりを分割することは不可能だった。従って、そこには部分と全体の包含関係や構成関係もあり得なかった。延長の有限様態が生成するとき、それと平行する思考の有限様態が出来事の観念である。しかし、その微粒子群の運動や静止が繰り返されるか反復しない限り、その観念は現れた途端に消えてしまう。一方、その微粒子群の運動や静止が繰り返されるか反復するとき、その微粒子群は他の運動や静止をなす微粒子たちとの相互作用域を持つことになる。その相互作用によって、その繰り返しからの様々な偏差が生じる。繰り返しの場合、そうした偏差によって、その繰り返しが減衰してゆく。反復の場合、そうした偏差こそがその繰り返しを支える。なるほど、それらのすべてがその繰り返しを支えるわけではない。しかし、一群の微粒子の運動や静止が自らの繰り返しを支えるのに十分なだけの偏差を持つとき、その運動や静止は反復する。そして、一度反復し始めると、その運動や静止との相互作用から生じる様々な偏差の、少なくともその一部をなす微粒子たちが、自らと相互作用する微粒子たちに対して、その微粒子群の運動や静止をなすように働き掛ける。故に、その微粒子群はそれらの偏差の相互作用域に存在する微粒子たちを、自らの運動や静止へと巻き込んでゆくことになる。ところで、ある延長の有限様態にとって、より多くの微粒子たちがその運動や静止をなすようになることはその活動力の増大であり、逆に、より少ない微粒子たちがその運動や静止をなすようになることはその活動力の減少である。従って、ある微粒子群の運動や静止が反復するとき、その延長の有限様態は自らの活動力の増大を目指し、その減少を回避しようとする傾向を持つ。私たちはそうした傾向を持つ延長の有限様態を「物体」と呼ぶ。
延長の有限様態は微粒子どうしの無限の相互作用によって生成し消滅する。この点、その運動や静止が繰り返されない微粒子群も、それらが繰り返される微粒子群も、それらが反復する微粒子群も変わりはない。ところで、無限の広がりには様々な偏差が生じている。微粒子群の運動や静止が繰り返されない場合、その出来事の観念は自らの偏差以外の諸偏差と平行することが出来ない。なぜならば、それらと平行するのならば、それは既にその出来事の観念ではないからである。また、その運動や静止が繰り返されるとしても、その出来事の観念はその繰り返される運動や静止以外の諸偏差と平行することが出来ない。なぜならば、その繰り返される運動や静止は、それが無限の相互作用から一度生起すると、それ以外の運動や静止に対して自らを閉じてしまうからである。確かに、その運動や静止をなすべく供給される微粒子は既存の微粒子群におけるものとは限らない。外部の微粒子たちもその供給源となっている。しかし、この外部からの供給は、その繰り返される運動や静止以外の運動や静止をなす微粒子が、その繰り返される運動や静止をなすようになるということでしかない。一方、微粒子群の運動や静止が反復するとき、その繰り返しからの偏差こそがその運動や静止の繰り返しを支えている。逆に、そうした偏差がなくなれば、その運動や静止も繰り返されることが不可能になる。
私たちはそうした物体と平行する思考の有限様態を「精神」と呼ぶ。精神の思考は他の出来事の観念とは異なり、その繰り返される運動や静止ばかりでなく、その繰り返しからの偏差をなす運動や静止とも平行する。そして、精神はそれらの運動や静止を受動する。私たちはその受動的な思考の有限様態を「情動」と呼ぶ。精神の受動する微粒子たちの運動や静止が運動の第一特徴や静止でしかないとき、その情動の強さは「=0」でしかない。情動が「=0」以外の値を採るためには、精神の受動する微粒子たちの運動や静止がそれらからの偏差をなしていなければならない。しかし、たとえその運動や静止が偏差をなすものであるとしても、それが繰り返されない場合、たちまち別の運動や静止に変化してしまう。そのため、次の瞬間、その情動の強さは「=0」になる。しかし、このとき、精神はその別の運動や静止を別の情動として感じる。それ故、ある精神の受動する偏差がすべて繰り返されない運動や静止であるとしても、その精神が情動そのものを感じなくなることはない。最も単純な物体ですら、その精神と平行する広がりには様々な偏差が生じている。従って、精神の繰り広げられる世界は多種多様な情動の世界となる。
一方、精神はそれらの偏差をなす運動や静止ばかりでなく、その物体において繰り返される運動や静止もまた受動する。より多くの微粒子がその運動や静止に巻き込まれるとき、その精神の感じる情動を私たちは「喜び」と呼ぶ。逆に、より少ない微粒子がその運動や静止に巻き込まれるとき、私たちはその精神の感じる情動を「悲しみ」と呼ぶ。反復する運動や静止をなす微粒子群は、様々な偏差からの働き掛けによって、その運動や静止に巻き込まれる微粒子の数を絶えず増減させている。その微粒子の出入りが平衡状態になっているとき、精神は喜びも悲しみも感じない。即ち、それらの情動の強さは「=0」である。その微粒子の数が増加傾向を持つとき、精神は喜びを感じ、逆に、それが減少傾向を持つとき、精神は悲しみを感じる。そして、その増加傾向や減少傾向の程度が大きければ大きいほど、それだけその情動は強くなり、逆に、その程度が小さなければ小さいほど、それだけその情動は弱くなる。ところで、物体には活動力の増大を目指し、その減少を回避しようとする傾向がある。そして、より多くの微粒子がその運動や静止をなすようになることは、その物体の活動力の増大であり、逆に、より少ない微粒子がその運動や静止をなすようになることは、その物体の活動力の減少である。従って、精神には喜びを求め、悲しみを避けようとする傾向がある。このことはその微粒子の出入りが平衡状態にあるとしても、増加傾向にあるとしても、あるいは、減少傾向にあるとしても変わらない。そして、精神がその増加傾向を喜びと感じ、その減少傾向を悲しみと感じたように、この喜びを求め、悲しみを避けようとする傾向もまた、それらとは異なる情動として感じられる。その精神の感じる情動を私たちは「欲望」と呼ぶ。
私たちは精神と物体を合わせた存在を「個体」と呼ぶ。どのような個体も、自らの情動世界を自らの欲望に則して構成している。ある偏差に関して、その運動や静止をなす微粒子の数が増加傾向にあるとき、精神はその広がりの情動が強くなるのを感じる。逆に、それが減少傾向にあるとき、精神はその広がりの情動が弱くなるのを感じる。そして、それが平衡状態にあるとき、精神にとってその情動の強さは変わらない。しかし、偏差の情動はそうしたものとしてあるだけではない。その情動の強さが増そうと、減ろうと、変わらなかろうと、その偏差をなす運動や静止が個体の活動力を増大させるのならば、その情動は喜びのヴァリエーションとして感じられる。逆に、その運動や静止が個体の活動力を減少させるのならば、その情動は悲しみのヴァリエーションとして感じられる。そして、その運動や静止が個体の活動力を増大させるか、減少させると感じられるのならば、その個体はそれを求めるか、避けようとする。あるいは、その運動や静止をなす微粒子の数が増加傾向にあるとき、個体がその活動力を増大させると感じるのならば、その個体はその情動が強くなることを求め、弱くなることを避けようとする。あるいは、その数が減少傾向にあるとき、個体がその活動力を増大させると感じるのならば、その個体はその情動が弱くなることを求め、強くなることを避けようとする。あるいは、その数が増加傾向にある