微粒子の感覚学



                    微粒子の感覚学
小松原 俊一

無限の、連続する広がりの極限として、限りなく小さな、永遠の広がりがある。その広がりを私たちは「微粒子」と呼ぶ。従って、微粒子は連続する、無限の広がりをその近傍としている。無限の、連続する広がりには、そのような無数の微粒子が互いに距離を持って存在し、運動している。それ故、微粒子たちの運動の第一の特徴は、それらが互いに永遠に近づき合うか、永遠に遠ざかり合うということである。なぜならば、いずれの微粒子も限りなく小さな広がりであり、かつ、いずれの微粒子の近傍も連続する、無限の広がりであるため、微粒子どうしはどこまでも近づくことが可能であり、また、どこまでも遠ざかることが可能だからである。ところで、思考属性とは異なり、延長属性には次の特徴がある。即ち、延長するもの(広がり)には空虚がなく、また、ある広がりを別の広がりが占めることは出来ない。それ故、ある微粒子が移動すると、その広がりを別の微粒子が満たす。無数の微粒子が運動し、互いに相手の場所を満たし合っている。こうして、微粒子どうしは無限に相互作用している。また、微粒子たちの運動も、それらが互いに近づき合うか、遠ざかり合うというだけではない。運動する微粒子たちの速さと方向が同じものになるのならば、それらの微粒子は互いに静止していることになる。そして、その無限の相互作用から、一群の微粒子どうしが単に近づき合うのでもなく、単に遠ざかり合うのでもなく、単に静止しているのでもないとき、その微粒子群の運動や静止は微粒子の運動の第一特徴や静止からの偏差(注1)をなす。無限の、連続する広がりでは絶えず、至る所で、こうした偏差が生じている。そして、それらの偏差の中から、その微粒子群の運動や静止が繰り返されるものや、その繰り返しからの偏差を巻き込んで反復するものが生じる。
無限の、連続する広がりに微粒子たちの運動や静止の偏差が生じるとき、その微粒子群の占める広がりが延長の有限様態である。もしも延長の有限様態が生成していなかったのならば、即ち、延長の無限様態(無限の、連続する広がり)と極限様態(微粒子)しか存在していなかったのならば、広がりを分割することは不可能だった。従って、そこには部分と全体の包含関係や構成関係もあり得なかった。延長の有限様態が生成するとき、それと平行する思考の有限様態が出来事の観念である。しかし、その微粒子群の運動や静止が繰り返されるか反復しない限り、その観念は現れた途端に消えてしまう。一方、その微粒子群の運動や静止が繰り返されるか反復するとき、その微粒子群は他の運動や静止をなす微粒子たちとの相互作用域を持つことになる。その相互作用によって、その繰り返しからの様々な偏差が生じる。繰り返しの場合、そうした偏差によって、その繰り返しが減衰してゆく。反復の場合、そうした偏差こそがその繰り返しを支える。なるほど、それらのすべてがその繰り返しを支えるわけではない。しかし、一群の微粒子の運動や静止が自らの繰り返しを支えるのに十分なだけの偏差を持つとき、その運動や静止は反復する。そして、一度反復し始めると、その運動や静止との相互作用から生じる様々な偏差の、少なくともその一部をなす微粒子たちが、自らと相互作用する微粒子たちに対して、その微粒子群の運動や静止をなすように働き掛ける。故に、その微粒子群はそれらの偏差の相互作用域に存在する微粒子たちを、自らの運動や静止へと巻き込んでゆくことになる。ところで、ある延長の有限様態にとって、より多くの微粒子たちがその運動や静止をなすようになることはその活動力の増大であり、逆に、より少ない微粒子たちがその運動や静止をなすようになることはその活動力の減少である。従って、ある微粒子群の運動や静止が反復するとき、その延長の有限様態は自らの活動力の増大を目指し、その減少を回避しようとする傾向を持つ。私たちはそうした傾向を持つ延長の有限様態を「物体」と呼ぶ。
延長の有限様態は微粒子どうしの無限の相互作用によって生成し消滅する。この点、その運動や静止が繰り返されない微粒子群も、それらが繰り返される微粒子群も、それらが反復する微粒子群も変わりはない。ところで、無限の広がりには様々な偏差が生じている。微粒子群の運動や静止が繰り返されない場合、その出来事の観念は自らの偏差以外の諸偏差と平行することが出来ない。なぜならば、それらと平行するのならば、それは既にその出来事の観念ではないからである。また、その運動や静止が繰り返されるとしても、その出来事の観念はその繰り返される運動や静止以外の諸偏差と平行することが出来ない。なぜならば、その繰り返される運動や静止は、それが無限の相互作用から一度生起すると、それ以外の運動や静止に対して自らを閉じてしまうからである。確かに、その運動や静止をなすべく供給される微粒子は既存の微粒子群におけるものとは限らない。外部の微粒子たちもその供給源となっている。しかし、この外部からの供給は、その繰り返される運動や静止以外の運動や静止をなす微粒子が、その繰り返される運動や静止をなすようになるということでしかない。一方、微粒子群の運動や静止が反復するとき、その繰り返しからの偏差こそがその運動や静止の繰り返しを支えている。逆に、そうした偏差がなくなれば、その運動や静止も繰り返されることが不可能になる。
私たちはそうした物体と平行する思考の有限様態を「精神」と呼ぶ。精神の思考は他の出来事の観念とは異なり、その繰り返される運動や静止ばかりでなく、その繰り返しからの偏差をなす運動や静止とも平行する。そして、精神はそれらの運動や静止を受動する。私たちはその受動的な思考の有限様態を「情動」と呼ぶ。精神の受動する微粒子たちの運動や静止が運動の第一特徴や静止でしかないとき、その情動の強さは「=0」でしかない。情動が「=0」以外の値を採るためには、精神の受動する微粒子たちの運動や静止がそれらからの偏差をなしていなければならない。しかし、たとえその運動や静止が偏差をなすものであるとしても、それが繰り返されない場合、たちまち別の運動や静止に変化してしまう。そのため、次の瞬間、その情動の強さは「=0」になる。しかし、このとき、精神はその別の運動や静止を別の情動として感じる。それ故、ある精神の受動する偏差がすべて繰り返されない運動や静止であるとしても、その精神が情動そのものを感じなくなることはない。最も単純な物体ですら、その精神と平行する広がりには様々な偏差が生じている。従って、精神の繰り広げられる世界は多種多様な情動の世界となる。
一方、精神はそれらの偏差をなす運動や静止ばかりでなく、その物体において繰り返される運動や静止もまた受動する。より多くの微粒子がその運動や静止に巻き込まれるとき、その精神の感じる情動を私たちは「喜び」と呼ぶ。逆に、より少ない微粒子がその運動や静止に巻き込まれるとき、私たちはその精神の感じる情動を「悲しみ」と呼ぶ。反復する運動や静止をなす微粒子群は、様々な偏差からの働き掛けによって、その運動や静止に巻き込まれる微粒子の数を絶えず増減させている。その微粒子の出入りが平衡状態になっているとき、精神は喜びも悲しみも感じない。即ち、それらの情動の強さは「=0」である。その微粒子の数が増加傾向を持つとき、精神は喜びを感じ、逆に、それが減少傾向を持つとき、精神は悲しみを感じる。そして、その増加傾向や減少傾向の程度が大きければ大きいほど、それだけその情動は強くなり、逆に、その程度が小さなければ小さいほど、それだけその情動は弱くなる。ところで、物体には活動力の増大を目指し、その減少を回避しようとする傾向がある。そして、より多くの微粒子がその運動や静止をなすようになることは、その物体の活動力の増大であり、逆に、より少ない微粒子がその運動や静止をなすようになることは、その物体の活動力の減少である。従って、精神には喜びを求め、悲しみを避けようとする傾向がある。このことはその微粒子の出入りが平衡状態にあるとしても、増加傾向にあるとしても、あるいは、減少傾向にあるとしても変わらない。そして、精神がその増加傾向を喜びと感じ、その減少傾向を悲しみと感じたように、この喜びを求め、悲しみを避けようとする傾向もまた、それらとは異なる情動として感じられる。その精神の感じる情動を私たちは「欲望」と呼ぶ。
私たちは精神と物体を合わせた存在を「個体」と呼ぶ。どのような個体も、自らの情動世界を自らの欲望に則して構成している。ある偏差に関して、その運動や静止をなす微粒子の数が増加傾向にあるとき、精神はその広がりの情動が強くなるのを感じる。逆に、それが減少傾向にあるとき、精神はその広がりの情動が弱くなるのを感じる。そして、それが平衡状態にあるとき、精神にとってその情動の強さは変わらない。しかし、偏差の情動はそうしたものとしてあるだけではない。その情動の強さが増そうと、減ろうと、変わらなかろうと、その偏差をなす運動や静止が個体の活動力を増大させるのならば、その情動は喜びのヴァリエーションとして感じられる。逆に、その運動や静止が個体の活動力を減少させるのならば、その情動は悲しみのヴァリエーションとして感じられる。そして、その運動や静止が個体の活動力を増大させるか、減少させると感じられるのならば、その個体はそれを求めるか、避けようとする。あるいは、その運動や静止をなす微粒子の数が増加傾向にあるとき、個体がその活動力を増大させると感じるのならば、その個体はその情動が強くなることを求め、弱くなることを避けようとする。あるいは、その数が減少傾向にあるとき、個体がその活動力を増大させると感じるのならば、その個体はその情動が弱くなることを求め、強くなることを避けようとする。あるいは、その数が増加傾向にあるとき、個体がその活動力を減少させると感じるのならば、その個体はその情動が弱くなることを求め、強くなることを避けようとする。あるいは、その数が減少傾向にあるとき、個体がその活動力を減少させると感じるのならば、その個体はその情動が強くなることを求め、弱くなることを避けようとする。そのとき、精神の感じる情動は欲望のヴァリエーションとなる。そして、その欲望と平行する運動や静止をなす微粒子の数が増加傾向にあるのならば、精神はその欲望が強くなるのを感じ、逆に、その数が減少傾向にあるのならば、精神はその欲望が弱くなるのを感じる。
情動は個体の連続する広がりのどこかに宿っている。ある延長の有限様態は他の延長の有限様態の広がりを占めることが出来ない。それに対して、情動は思考の有限様態であるため、複数の情動が同じ広がりに宿ることが出来る。しかし、たとえ同じ広がりに宿っているとしても、それらの情動は互いに区別することが可能である。なるほど、個体の情動世界はその欲望に則って構成されているため、そうした区別が曖昧になっているかも知れない。しかし、そのことはそれらの情動がそもそも混ざり合っていることを意味しない。そうではなくて、そもそも区別されている情動が、その欲望の構成によって混ぜ合わされていると考えるべきである。逆に、広がりは区別することが出来ない。例えば、コップのある場所を考えてみよう。私たちは「コップ」の様々な情動(透明さ、硬さ、冷たさなど)によって、その物体の存在する場所をそうでない場所から区別している。しかし、その境界においては、コップを構成する諸物体が運動し続けている。従って、それらの場所を厳密に区別することなど不可能である。あるいは、私たちがいつから禿頭になるのか考えてみよう。「禿頭」の様々な情動(毛の少なさや細さ、地肌の異様な白さなど)によって、私たちは禿頭をそれ以外の頭の状態から区別している。私たちがかつて禿頭でなかったとすれば、「禿頭になった瞬間」というものがあるはずである。しかし、その「瞬間」を確定することは出来ない。私たちは未だ禿げていないか、既に禿げているかのいずかでしかない。従って、禿頭のときをそうでないときから厳密に区別することなど不可能である。あるいは、運動する物体の速さや方向について考えてみよう。その速さや方向が変化するとき、どんなに急激であろうと、どんなに緩慢であろうと、その変化は連続的である。その速さや方向は未だ変化していないか、既に変化しているかのいずれかでしかない。従って、ある瞬間の速さを次の瞬間の速さから区別することも、また、ある瞬間の方向を次ぎの瞬間の方向から区別することも、厳密には不可能である。こうしたことはすべて、延長属性が連続的であることに由来する。情動が区別的であり、非連続的であるのに対して、広がりは連続的であり、非区別的である。
一つの広がりに複数の情動が宿るのは、その広がりを占めている微粒子たちが複数の異なる偏差の全体や一部をなしているからである。今、微粒子群Aが微粒子群Bとともに偏差1をなし、同じAが微粒子群Cとともに偏差2をなし、また、微粒子群Dとも偏差3をなしているとする。このとき、Aの広がりは三つの情動の宿るところとなる。ところで、(A+B)の広がり、(A+C)の広がり、(A+D)の広がりは、Aの部分で重なり合いながら、全体としては別の広がりとなっている。それ故、私たちはそれぞれの広がりに宿る情動によって、私たちの情動世界からその広がりを切断することが出来る。例えば、(A+B)の広がりに宿る情動が「色彩」と呼ばれるものであり、(A+C)の広がりに宿る情動が「形象」と呼ばれるものであり、(A+D)の広がりに宿る情動が「匂い」と呼ばれるものであるとしよう。そして、それらの情動が私たちの欲望に構成されて「花」と呼ばれるものになっているとしょう。私たちは自らの鼻をその花に埋めてみたい。私たちはこの欲望に導かれて活動し、その花を味わい喜びに満たされる。その花を欲望し活動するとき、私たちにはその「色彩」の広がりも、その「形象」の広がりも、その「匂い」の広がりも、私たちの情動世界から切断することが出来ない。なぜならば、それらの広がりはその「花」の広がりの中で連続しているからである。しかし、だからと言って、私たちの精神がそれらの情動を区別していないわけではない。欲望を感じるときも、喜びを感じるときも、私たちの精神はそれらの情動を区別している。そうでなければ、私たちの欲望がその「花」を構成することはなかった。故に、その花を欲望し活動する私たちには、その「色彩」の情動によって(A+B)の広がりを切断し、その「形象」の情動によって(A+C)の広がりを切断し、その「匂い」の情動によって(A+D)の広がりを切断することが出来る。なるほど、それらの広がりが切断されるとき、その「花」というものは失われてしまう。しかし、個体の広がりに切断を導入することは、そこに宿る様々な情動をその欲望の構成から解放することでもあるのだ。
切断された広がりに宿る情動を、私たちは「内包量」と呼ぶ。なぜならば、それはその広がりの内に包み込まれたものであり、かつ、それには「0」以上の程度があるからである。そして、切断された広がりにはもうひとつの特徴がある。私たちはそれを「外延量」と呼ぶ。なぜならば、それはその広がりにおいて外に延長しているものであり、かつ、それには「0」以上の程度があるからである。外延量には例えば、大きさ、速さ、方向などがある。内包量と外延量はその広がりにおける微粒子たちの運動や静止をそれぞれ思考属性と延長属性において捉えたものである。その微粒子たちの運動や静止の特徴が、その広がりの内包量の質を決定し、その運動や静止をなす微粒子の数がその量を決定する。その数が増加すればその内包量は大きくなり、逆に、その数が減少すればその内包量は小さくなる。そして、その微粒子たちの運動や静止がその特徴を変化させれば、その内包量は「=0」になる。一方、その運動や静止をなす微粒子群の部分がその全体の中で占める大きさの割合がある。それは連続的に変化し、その割合が増えればその外延量は大きくなり、逆に、その割合が減ればその外延量は小さくなる。そして、その微粒子たちの運動や静止がその特徴を変化させれば、その外延量は「=0」になる。また、その微粒子群の部分がその全体の広がりを移動するとき、その部分がその全体に対して相対的な速さを持つ。それは連続的に変化し、その速さが増せばその外延量は大きくなり、その速さが減ればその外延量は小さくなる。そして、その微粒子たちの運動や静止がその特徴を変化させれば、その外延量は「=0」になる。同じく、その場合、その部分がその全体に対して相対的な方向を持つ。確かに、その外延量は大きさや速さと異なり、大きくなることもなれば、小さくなることもない。しかし、その微粒子たちの運動や静止がその特徴を変化させれば、その外延量もまた「=0」になる。この点では、内包量と外延量も違いがない。
こうして、私たちは切断された広がりに固有の内包量と外延量を持つ。そして、それらが私たちを技術、記号、美へと導くことになる。

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 アンドレ・ルロワ=グーランによれば、アウストラロピテクス(即ち「南のサル」。彼はこれを正当にもアウストララントロプス、即ち「南のヒト」と呼ぶのであるが)によるものと思われる最初の石器は、手ごろな石塊の側面に別の石塊を直角に打ち当てるという打撃によって作製された(注2)。この打撃によってその石塊から破片がはがれ、鋭い刃を持つようになる。そして、その打撃を適切に何回か加えると刃渡りはより長くなり、また、一つの側面からではなく二つの側面から打撃を加えると簡単な「両面石器」になる。自然の石塊は様々な内包量と外延量を持ち、風化によって破壊されてそれらを変化させる。あるいは、ひとがそれを使って胡桃などをかち割るうちに、偶然破壊されてその内包量と外延量を変える。しかし、手ごろな「大きさ」の石塊に、適切な「速さ」や「方向」を持つ打撃を意図的に加えて、その内包量と外延量を変化させるということは、単なる風化や破壊とは異なる活動である。「刃」を持つ石核とそれを持たない石塊は異なる内包量と外延量を持つ。また、その刃が「より鋭く」なることや、一つの「面」ではなく二つの「面」をなすことも、それぞれ異なった内包量と外延量を持つ。石器製作者は石塊に「垂直方向」の一撃を加えて、自然石の様々な内包量と外延量から「刃」の内包量と外延量へのシークエンスをなす。あるいは、その打撃を何度か加えて、「刃」の内包量と外延量から「より鋭い」刃の内包量と外延量へのシークエンスをなす。あるいは、一つの「面」の内包量と外延量から二つの「面」の内包量と外延量へのシークエンスをなす。いずれにせよ、この石器製作者はある内包量と外延量へ向けて、複数の内包量と外延量のシークエンスをなすわけである。(内包量と外延量のシークエンスⅠ参照
 石器製作の話を続けよう。ルロワ=グーランは、アウストララントロプスから原人への生物学的な進化は石器製作の技術的な進化に平行するとみている。今や、「垂直方向」、即ち「法線方向」の打撃ばかりでなく、「接線方向」の打撃がこれに加わる(注3)。この打撃はそのままで剃刀のように使える剥片を生じさせ、また石核に関しては、両面石器をより精巧にすることと「握斧」という新しい石器を可能にする。石器製作者は適切な「速さ」の「法線方向」と「接線方向」の打撃を何度か加えて、「刃」や「面」の内包量と外延量からより精巧な両面石器の様々な内包量と外延量へのシークエンスをなす。あるいは、「刃」や「面」の内包量と外延量から握斧の様々な内包量と外延量へのシークエンスをなす。そして、いずれの作製においても、その「接線方向」の打撃から生じる剥片石器の様々な内包量と外延量が副次的にもたらされる。(内包量と外延量のシークエンスⅡ参照
次に、原人から旧人への生物学的な進化は石器製作の更なる技術的な進化と平行することになる。取り分け、中期石器時代のルヴァロワジアン=ムステリアン期に、石器製作は石核から剥片へとその重点を移動させる(注4)。原人の段階で既に、「接線方向」の打撃によって石核からそのままで使える剥片を生じさせることが可能になった。しかし、このことは副次的な産物に過ぎず、製作の重点は相変わらず石核にあった。一方、この旧人の段階では、石核石器の製作に加えて、石核を源として剥片石器を作製するという技術的な大転回が起こる。「法線方向」と「接線方向」の打撃を巧みに調整することで、源としての石核から次々と剥片石器が生み出され、この作製は石核そのものがなくなるまで続く。更に、この製作は高度な計画性をもって進められ、例えば、先ず不均斉な両面石器が源として作られ、その石核からルヴァロワジアン型剥片やブレイド・フレークが切り出され、そのブレイド・フレークの切り出された石核から長短二種のルヴァロワジアン型尖頭器が切り出される。また更に、石核石器には両面石器と握斧の二種類しかないのに対して、剥片石器にはルヴァロワジアン型剥片、ブレイド・フレーク、ルヴァロワジアン型その他の尖頭器、掻器、小掻器、小刀、切込みのある石器などがあり、ここで石器の種類が飛躍的に増加する。この周到な石器製作者は自然石の様々な内包量と外延量から石核の様々な内包量と外延量へ、それらから剥片やブレイド・フレークの様々な内包量と外延量へ、また、ブレイド・フレークを切り出された石核の様々な内包量と外延量から「短い」尖頭器の内包量と外延量へ、更に、その尖頭器の切り出された石核の様々な内包量と外延量から「長い」尖頭器の内包量と外延量へのシークエンスをなすわけである。(内包量と外延量のシークエンスⅢ参照
 一方の石で他方の石を打撃すること、ここにすべての端緒がある。しかし、その身振りと、例えば石で胡桃を打撃するという身振りとの違いは実に微妙なものである。石で何かを叩くことが繰り返されている間、石で石を打撃することはその繰り返しからの偏差に過ぎない。あるとき、誰かがその身振りと平行して、手ごろな「大きさ」の石塊どうしを適切な「速さ」でぶつけ合わせることによってもたらされる、自然石から「刃」を持つ石核への内包量と外延量のシークエンスを思考する。その思考は石で何かを叩くという身振りがその偏差を巻き込んで反復することをもたらす。そして、石で石を打撃する身振りが繰り返されている間、ある仕方での加撃が石核に「より鋭い」刃をもたらすことがあるとしても、それはその繰り返しからの偏差に過ぎない。あるとき、誰かがその身振りと平行して、「より鋭い」刃の内包量と外延量を組み込んだシークエンスを思考する。その思考は石で石を打撃するという身振りがその偏差を巻き込んで反復することをもたらす。そして、石核に「より鋭い」刃をもたらす加撃が繰り返されている間、別の加撃が石核の刃を二つの「面」にすることがあるとしても、それはその繰り返しからの偏差に過ぎない。あるとき、誰かがその身振りと平行して、二つの「面」の内包量と外延量を組み込んだシークエンスを思考する。その思考は石核に「より鋭い」刃をもたらす加撃がその偏差を巻き込んで反復することをもたらす。
さて、以上の身振りはすべて石塊の面に対して「法線方向」の打撃である。その打撃が繰り返されている間、「接線方向」の打撃はその繰り返しからの偏差に過ぎない。あるとき、誰かがその身振りと平行して、より精巧な両面石器や握斧や剥片石器の様々な内包量と外延量を組み込んだシークエンスを思考する。その思考はその「法線方向」の打撃がその「接線方向」の打撃を巻き込んで反復することをもたらす。ところで、これらの石器作製法はいずれも石核に重点をおいた技術であり、たとえ「接線方向」の打撃によって剥片石器が作られるとしても、それはそうした技術の副産物に過ぎない。あるとき、誰かが石核から複数の剥片石器を計画的に切り出すために、そのような内包量と外延量のシークエンスを思考する。なるほど、それはその「法線方向」と「接線方向」の打撃がある偏差を巻き込んで反復することに変わりはない。しかし、その偏差はもはや身振りの微妙な違いですらない。それは石器製作の重点を石核から剥片へと移動させる思考の偏差である。
新しい石器の作製技術が発生することは、既存の身振りがその繰り返しからの偏差を巻き込んで反復することである。しかし、新しい技術が発生したというだけでは既存の技術を革新したことにはならない。なぜならば、その新しい技術は誰にも模倣されることなく、そのまま失われてしまうことがあるからである。従って、技術革新には次の二つの契機がある。第一の契機は新しい技術の発生であり、それは身振りの反復である。第二の契機はその技術の模倣であり、それは身振りの繰り返しである。ある身振りが反復し、その身振りが繰り返されること、それが技術革新である。従って、石器製作の技術革新は、石で石を打撃する身振りが反復するばかりでなく、その身振りが繰り返されることから始まる。しかし、それでは、その身振りの反復とその身振りの繰り返しとはどのように違うのだろうか。前者が一回目の繰り返しで、後者が二回目以降の繰り返しである、というだけの違いなのだろうか。それとも、何か別の違いがあるのだろうか。
石で石を打撃することが反復する以前、その身振りが繰り返されることはなく、それは石で何かを叩くことの偏差でしかなかった。従って、その打撃の内包量も、その「速さ」や「方向」という外延量も、「刃」の内包量と外延量も、その値が生じた途端に「=0」になってしまうものであった。人類はいまだ「刃」というものを知らないのであり、当然のことながら、それがどのような打撃によってもたらされるのか考えてみることすら出来ないはずである。その身振りが反復して初めて、それらの内包量と外延量が「=0」以外の、それに固有の値をなす。そして、それ以降、石材を打撃するその運動や静止、及び、打撃されるその石材の運動や静止が、互いに相手の繰り返しを支え合えるようになる。即ち、あの手の石を、あの手の石で、あのように打撃すれば、あのような「刃」が出来るというわけである。繰り返しどうしの支え合いによる繰り返しは反復ではない。反復というものは、繰り返されなかった偏差が繰り返されるようになるその生成にある。そして、もしもその生成が反復するのならば、それは繰り返しではなく反復である。この場合、石塊を打撃するその運動や静止、及び、打撃されるその石塊の運動や静止が、互いに相手の繰り返しを支え合っていないにも関わらず、それらの内包量と外延量が「=0」以外の、それに固有の値をなす。即ち、あの手ではなくこの手の石を、あの手ではなくこの手の石で、あのようにではなくこのように打撃したら、あのような「刃」ではなくこのような何かになったというわけである。この「何かになる」を何も起きないことや何にもならないことと混同してはならない。それは何かになるのだが、その「何か」はあのような「刃」以外のものである。そして、それらの内包量と外延量は、それ以降、それらの運動や静止が互いに相手の繰り返しを支え合えるようにするものである。
しかし、反復する身振りは必ずしも繰り返されない。石材を打撃するその運動や静止、及び、打撃されるその石材の運動や静止が、互いに相手の繰り返しを支え合えるようになったからと言って、それは可能性に過ぎず、現実にその身振りが繰り返されるようになるとは限らない。その身振りが繰り返されるかどうかは、それがどのような社会において反復したのかによる。なぜならば、技術の身振りは個体においてではなく、社会においてなされるものだからである。
社会を構成するものは人間ばかりではない。例えば、狩猟採集社会は狩猟採集民だけから構成されているわけではない。採集される植物や狩猟される動物は勿論のこと、彼らの生きる大地、住居その他の建造物、生業や生活に必要な道具、呪具、部落どうしで交換される威信財、戦争のための武器などもまたその構成要素である。同じく、農耕社会は農耕民だけから構成されているわけではない。栽培される植物は勿論のこと、彼らが耕作する土地、建造物、食料や生業に供される家畜、道具、祭具、威信財、武器などもまたその構成要素である。牧畜社会、遊牧社会、都市社会、国家等、いずれの社会も、人々ばかりでなく、様々な生物や無生物、有機物や無機物をその構成要素としている。そして、それらの物体ばかりでなく、それらの間で繰り返される出来事もまたその構成要素である。例えば、狩猟採集社会において、主に狩猟を担当する男性たちのグループは何らかの物体というわけではなく、彼らと狩猟道具の間で繰り返される出来事のことである。同じく、主に採集を担当する女性たちのグループも、彼女たちと採集道具の間で繰り返される出来事のことである。それらの出来事がその狩猟採集社会の一部を構成している。そして、それらの物体や出来事を構成要素とする社会は、その延長的な構成体と平行する思考的な構成関係を持っている。その思考的な構成関係を私たちは「記号系」と呼ぶ。
ところで、農耕社会を構成する稲や麦はその実を容易に落さなかったであろう。それ故、穂を切り取るための道具があれば、それらの採集は大変効率的になる。この場合、誰かがそのための石器(石包丁)を作製するのならば、その身振りはその社会において繰り返されることになる。一方、狩猟採集社会を構成する原‐稲や原‐麦はその実を容易に落したであろう。この場合、誰かがそのような石器を作製したとしても、その身振りがその社会において繰り返されることはない。なぜならば、そこで必要とされる道具は穂を叩く棒や落ちた実を集める籠のようなものであり、穂を切り取るための道具など何の役にも立たないからである。
しかし、ここで私たちが問題にしているのは、「どの道具が役に立つのか」という機能主義的な解釈ではない。そうではなくて、ある身振りが繰り返されるためには、その運動や静止の繰り返しが他の運動や静止の繰り返しと互いに支え合わなければならないということである。石包丁を製作する身振りが農耕社会において繰り返されるのは、穂の落ちにくに稲や麦の再生産、及び、それを収穫する人々の身振り、それらの運動や静止が互いに相手の繰り返しを支え合っているからである。それだけではない。その収穫された稲や麦が貯蔵可能であるが故に、その収穫の身振りの繰り返しはそれを保管し再分配する身振りの繰り返しと互いに支え合っている。また、その石器製作の身振りとその収穫の身振りの繰り返しは、他の部落との交易の身振りの繰り返しとも互いに支え合っている。更に、その石器製作の身振り、その収穫の身振り、その保管や再分配の身振り、そして、その交換の身振りの繰り返しは、婚姻制度(即ち、人々を再生産する仕方)における様々な身振りの繰り返しとも互いに支え合っている。石器製作の身振りに限らず、ある身振りがその社会において繰り返されるのは、その社会における様々な運動や静止が互いに相手の繰り返しを支え合っているからである。
そして、こうした身振りの繰り返しがなされるのは、その社会に固有の記号系がそれらの物体や出来事にその記号内容を与えるからである。逆に、そうした記号系が人々に共有されるのは、その身振りが人々の間で繰り返されるからである。例えば、石核に「刃」をもたらす内包量と外延量のシークエンスであるが、もしもそれらの内包量と外延量が「=0」以外の、それに固有の値を既に持っているのならば、それはひとつの記号系である。その記号系が人々に共有されるとき、その内包量と外延量を持つ石塊は単なる石の塊ではなく、やがて石器になるはずの「石材」という記号内容を帯びる。また、その石材に打撃を加える、その内包量と外延量を持つ石塊も、その石器を作るための「道具」という記号内容を帯びる。また、その道具の打撃から生じた内包量と外延量も「刃」という記号内容を帯び、その刃を持つ石塊も「石器」という記号内容を帯びる。それだけではない。その石材を打撃する身振りは、他の内包量と外延量を持つ身振りと区別されて、「その石器を作製する身振り」という記号内容を帯びる(注5)。同様にして、その社会で繰り返されるすべての身振りには、それに固有の記号系がある。それらの記号系が人々に共有されることと平行して、社会はその記号内容を帯びた物体や出来事から構成される。また、そうした物体や出来事の運動や静止が互いに相手の繰り返しを支え合うことと平行して、人々はそれらの記号系を共有する(注6)

                       *
 
 情動に従って活動し、その活動によって情動が変化し、その情動に従ってまた活動すること、それは情動と活動の螺旋を形成する。情動の解放された個体であれ、そうでない個体であれ、それらはこの螺旋を形成している点で違いがない。このとき、その螺旋をなす物体には、微粒子たちの運動や静止の活発な部分とそうでない部分とが生じる。精神における知覚は、その活発な部分と平行する感覚である。
私たちはこれまで、人類の例を考察してきた。しかし、動物に限らず、植物や菌類といった生物はおろか、鉱物や金属などの非生物、また、分子、原子、素粒子に至るまで、もしもそれらが第n種物体(n≧0.ただし、最単純物体を第0種物体とする)であるのならば、それぞれがその情動と活動の螺旋を形成する。ところで、第n種物体を類別する仕方には様々なものがある。例えば、単純なものと複雑なもの、純粋なものと混合したもの、生きているものとそうでないものなどである。私たちがここで着目したいのは神経を持つものとそれを持たないものとの類別である。神経を持つ物体はそれを持たない物体とどのように異なっているのだろうか。
神経の秩序は、第一に、その要素どうしの連結である。その要素どうしが連結することによって、ある活動が別の活動に連結され、それと平行して、ある感覚が別の感覚に連結する。これはある活動と平行する感覚が別の感覚と平行する活動に連結することである。







神経によって感覚と活動が連結されるとき、私たちはその感覚にともなう情動を「刺激」と呼び、その活動自体を「反応」と呼ぶ。物体が反応することによって刺激が変化し、その変化した刺激がその反応を促進するか、あるいは抑制する。こうして、精神を構成する多様な感覚のうちのあるものが、物体のなす多様な活動のうちのあるものとともに、特定の刺激から特定の反応へのループを形成する。従って、このループは情動と活動の螺旋を神経の網で掬えるもののみに粗略化したものである。こうした神経の発生は、その身体における活動の活発さと不活発さの区別の仕方を変化させる。今や、知覚はその螺旋がループ状になった上でのものであり、一方、その螺旋におけるものは「微小知覚」として、曖昧な感覚とともにその個体の無意識の闇に消える。
 第二に、神経の秩序は連結する要素どうしの切断である。連結するのは切断されている要素どうしであり、切断されるのは連結している要素どうしである。ある刺激と連結した反応はその刺激がなくなることによって消える。しかし、その刺激がなくなっていない場合でも、別の連結が生じることによってその連結を切断するのならば、その反応は消える。しかし、更に別の連結が生じることによって、その別の連結が切断されるのならば、もともとの連結が切断されることはなく、従って、その反応も消えることはない。また、連結1と連結2が並列回路を形成するのならば、別の連結が生じることによって連結1が切断されたとしても、連結2が切断されない限りその反応は消えず、あるいは、別の連結が生じることによって連結2が切断されるとしても、連結1が切断されない限りその反応は消えない。連結1を切断する連結と連結2を切断する連結がともに生じない限り、その反応が消えることはない。







しかし、連結1と連結2が直列回路を形成するのならば、いずれか一方を切断する連結が生じれば、その反応は消える。



並列する連結の数はいくらでも増やすことが出来るし、そのことは直列する連結に関しても同様である。また、並列回路と直列回路を組み合わせて第三の回路を形成することも出来る。こうして、神経の秩序は複雑化してゆく。そして、その秩序が複雑になればなるほど、個体の刺激と反応のループはより多様なものになる。
 しかし、そのループがどれほど多様になろうとも、それが内包量の粗略化であることに変わりはない。即ち、すべての内包量は「=有」か「=無」かのいずれかでしかなくなるのだ。神経の秩序はその要素の連結と切断である。何らかの内包量において神経の要素が連結され、何らかの反応が引き起こされるのならば、その内包量がいかなる程度であろうと(例えば「=小」であろうと「=大」であろうと「=最大」であろうと)「=有」であり、逆に、その内包量において神経の要素が連結されることなく、いかなる反応も引き起こさないのならば、たとえそれが「=0」でなくとも「=無」である。また、何らかの内包量において神経の要素が連結され、それによって他の連結が切断され、何らかの反応が停止されるのならば、その内包量がいかなる程度であろうと「=有」であり、逆に、神経の要素が連結されることなく、その反応が維持されるのならば、たとえそれが「=0」でなくとも「=無」である。
連結1と連結2が並列回路を形成し、かつ、連結3が連結1を切断し、連結4が連結2を切断する場合、ある内包量において連結3が実現したとしても、別の内包量において連結4が実現しないのならば、その反応が停止することはない。このとき、連結4の内包量ばかりでなく、連結3の内包量も「=無」である。逆に、ある内包量において連結4が実現したとしても、別の内包量において連結3が実現しないのならば、連結3の内包量ばかりでなく、連結4の内包量も「=無」である。従って、連結3と連結4がともに実現する限りにおいて、それらの内包量は「=有」となる。
一方、連結1と連結2が直列回路を形成する場合、ある内包量において連結3か、連結4のいずれかが実現するのならば、その反応は停止する。このとき、たとえ一方の連結が実現していなかったとしても、それらの内包量は「=有」である。従って、連結3と連結4がともに実現しないときにのみ、それらの内包量は「=無」となる。
 こうした神経機構が既に構成されている上で、その機構によってもたらされる内包量のあるものがその刺激‐反応のループから解放されるとき、それらの内包量どうしを互いに連結することが可能になる。即ち、ある内包量の「=有」と他の内包量の「=有」を連結することもあれば、ある内包量の「=有」と他の内包量の「=無」を連結することもある。あるいは、ある内包量の「=無」と他の内包量の「=無」を連結することもある。
例えば、私たちの音声であるが、口を大きく開くことで発することの出来る音(広口音)の内包量が「=有」とされ(従って、そうでない音の内包量が「=無」とされ)、唇の形を平たくすることで発することの出来る音(平唇音)の内包量が「=有」とされ(従って、そうでない音の内包量が「=無」とされ)、舌の位置を前にすることで発することの出来る音(前舌音)の内包量が「=有」とされる(従って、そうでない音の内包量が「=無」とされる)のならば、それらの内包量を互いに連結(‐)させることで、

「有‐無‐無」という連結関係による音韻(ア)、
「無‐有‐有」という連結関係による音韻(イ)、
「無‐無‐無」という連結関係による音韻(ウとオ)、
「無‐無‐有」という連結関係による音韻(エ)

を繰り返すことが可能になる。
また、口を小さく開くことで発することの出来る音(狭口音)の内包量が「=有」とされ、唇の形を丸くすることで発することの出来る音(円唇音)の内包量が「=有」とされ、舌の位置を後ろにすることで発することの出来る音(後舌音)の内包量が「=有」とされるのならば、それらの内包量を互いに連結させることで、

「無‐無‐有」という連結関係による音韻(ア)、
「有‐無‐無」という連結関係による音韻(イ)、
「有‐無‐有」という連結関係による音韻(ウ)、
「無‐無‐無」という連結関係による音韻(エ)、
「無‐有‐有」という連結関係による音韻(オ)

を繰り返すことが可能になる。
ところで、唇の形を丸くすることはその形を平たくする神経要素の連結を切断(|)する(唇の形を丸くするとき、それを平たくすることは出来ない)。逆に、唇の形を平たくすることはその形を丸くする神経要素の連結を切断する(唇の形を平たくするとき、それを丸くすることは出来ない)。それ故、円唇音の内包量が「=有」であるときには平唇音の内包量が「=有」になることはない。逆に、平唇音の内包量が「=有」であるときには円唇音の内包量が「=有」になることはない。しかし、円唇音の内包量が「=無」であるとき、平唇音の内包量が「=有」であるとは限らず「=無」の場合もある。逆に、平唇音の内包量が「=無」であるとき、円唇音の内包量が「=有」であるとは限らず「=無」の場合もある。これは広口音と狭口音の場合も同様である。一方、舌の位置は口内の前よりにあるか、後ろよりにあるかのいずれかである。それ故、前舌音の内包量が「=有」のときには後舌音の内包量は「=無」であり、逆に後舌音の内包量が「=有」のときには前舌音の内包量は「=無」である。従って、日本語の「母音」に関しては、

(広口音|狭口音)‐(平唇音|円唇音)‐(前舌音|後舌音)(注7)

という内包量どうしの連結・切断関係を構成しなければならない。こうして、

ア(a):(有|無)‐(無|無)‐(無|有)、
イ(i):(無|有)‐(有|無)‐(有|無)、
ウ(u):(無|有)‐(無|無)‐(無|有)、
エ(e):(無|無)‐(無|無)‐(有|無)、
オ(o):(無|無)‐(無|有)‐(無|有)。

同じく、呼気の通路を閉じたあと急に開くことで発することの出来る音(破裂音あるいは閉鎖音)、口腔の一部に隙間を作り、そこに呼気を通すことで発することの出来る音(摩擦音)、そして口腔を閉鎖し、呼気を鼻腔に通すことで発することの出来る音(鼻音)は互いに相手の神経要素の連結を切断する。それ故、いずれかの内包量が「=有」であるときには他の内包量はすべて「=無」である。また、唇を使うことで発することの出来る音(唇音)、歯や歯茎と舌を使うことで発することの出来る音(歯舌音)、そして口蓋と舌を使うことで発することの出来る音(口蓋舌音)も同様である。また、声帯を震わせる音(声音)の内包量が「=有」とされるのならば、声帯を震わせない音の内包量は「=無」とされる。私たちの「子音」はこれら互いに切断し合う内包量の連結から成る。ただし、鼻音は声帯を震わせることによってしか発声することが出来ないため、すべて有声音である。また、歯舌音には破裂音でも摩擦音でも鼻音でもない、舌先で歯茎を軽く叩くことで発することの出来る音(叩音)がある。この音も声帯を振るわせることによってしか発声することが出来ないので有声音である。従って、日本語の「子音」に関しては、

(破裂音|摩擦音|鼻音|叩音)‐(唇音|歯舌音|口蓋舌音)‐声音(注8)

という内包量の連結・切断関係を構成しなければならない。こうして、

カ行子音(k):(有|無|無|無)‐(無|無|有)‐無、
サ行子音(s):(無|有|無|無)‐(無|有|無)‐無、
タ行子音(t):(有|無|無|無)‐(無|有|無)‐無、
ナ行子音(n):(無|無|有|無)‐(無|有|無)‐有、
ハ行子音(h):(無|有|無|無)‐(無|無|有)‐無、
マ行子音(m):(無|無|有|無)‐(有|無|無)‐有、
ラ行子音(r):(無|無|無|有)‐(無|有|無)‐有(注9)

ヤ行子音(y)は「イ」を子音として使ったものであり、ワ行子音(w)は「ウ」を子音として使ったものである。また、「ン」(n)は母音の伴わないナ行子音である。ガ行子音(g)、ザ行子音(z)、ダ行子音(d)、バ行子音(b)、パ行子音(p)など、それらの子音もまたこの連結・切断関係によって繰り返すことが可能になる。

   *

 個体の情動世界はその物体の内部と外部に広がっている。個体は自らの広がりの様々な場所で、そこに宿る様々な情動を感じる。しかし、個体の精神はそのように受動するばかりではない。精神は思考の能動的様態であり、即ち思考するものである。故に、精神にはそれが思考する内容がある。私たちは精神の思考する内容を「感覚」と呼ぶ。それ故、感覚もまた思考の能動的様態であり、精神は諸感覚から構成されている。即ち、感覚は精神の構成要素であり、特にその思考の構成要素である。ところで、情動にはその質と強さがある。そして、ある質の情動には様々な強さがある。例えば、痛みの情動には「しくしくと痛む」から「激痛」まで様々な強さがある。痛みの感覚とは、それらすべての痛みの情動を潜在させるものである。一方、痛みの情動とは、その痛みの感覚からその都度現実化するものである。痛みばかりではない。精神の感じる(即ち、受動する)情動は、その精神の思考する(即ち、能動する)感覚から、その都度生じてくる現実態である。一方、その感覚はそうしたすべての情動を潜在態として持つ。しかし、このことは感覚が精神の実際に感じた情動の総和であるということでもなければ、それらの情動からその強さを剥奪した抽象であるということでもない。そうではなくて、精神がある感覚を思考するとき、ある強さの情動を実際に感じたことがあろうとなかろうと、また、別の強さの情動をこれから感じることがあろうとなかろうと、その感覚はあらゆる強さの情動を潜在的に共存させているということである。
ここで色の情動について考えてみよう。私たちが虹を見るとき、それを何色に区別するだろうか。もしも赤・橙・黄・緑・青・藍・紫の七色に区別するのならば、それぞれの色が更に様々な強さに区別される。例えば、青という情動の場合、緑と藍の両方からもっとも遠いところの青はその強さが最大であり、逆に、緑に近づけば近づくほど、また、藍に近づけば近づくほど、青の強さは小さくなる。このことは他の色の情動に関しても同様なので、青の強さが最少になるのは緑や藍の強さが最小になる一歩手前であり、そして、青が緑や藍の最小に達したとき、その強さは「=0」になる。青の感覚とはそれらすべての青の情動を内包するものである。しかし、もしも私たちが虹を赤・緑・紫の三色にしか区別しないのならば、例えば、赤の感覚は先の赤の情動のすべてばかりでなく、橙の情動のすべてと黄の情動の半分を内包することになる。逆に、七色よりも細かく区別するのならば、それぞれの感覚が持つ情動の最大と最小の幅はより狭くなる。私たちがどのような色の感覚を思考するのかに応じて、その感覚の内包する情動も異なったものとなる。
これらの感覚は情動からその強さを剥奪した抽象ではない。例えば、青の感覚を思考することは、それら様々な青の情動に共通する質を引き出すことではない。また、その感覚は赤その他の色との関係概念でもないし、「青」という言葉の意味でもない。その感覚は緑と藍の最少の情動に縁取られた、その強さが最大から最少までの、それら青の情動のすべてを内包するものである。しかし、それはそれらの情動を現実態として持っているということではない。そうではなくて、その感覚において、それらの情動のすべてが潜在態として共存しているということである。一方、それらの情動はその感覚における潜在態が現実化したものである。なるほど、この場合、感覚が精神の実際に感じた情動の総和になっていると言えなくもない。なぜならば、私たちが虹を見ながら青の感覚を思考するとき、その精神はそれらの青の情動のすべてを実際に感じているからである。しかし、これとて厳密にはそうではない。なぜならば、青の感覚が潜在させている情動は虹のそれらに限定されないからである。その感覚は壁のペンキの青や絵の中の青ばかりでなく、ランボーが発明した母音の青(注10)、音楽家たちが創造した音調の青、そして、生まれつき目の見えないひとたちが見ている青などを潜在させている。
感覚には次の三つのものがある:
1.      繰り返されることなく、速やかに消滅してしまうもの、
2.      繰り返されるが、その繰り返しからの偏差が不可避的に生じるため、徐々に減衰し、やがて消滅するもの、
3.      繰り返されるばかりでなく、その繰り返しからの偏差を巻き込んで反復するもの。
 私たちは自らの広がりに様々な切断を導入し、それらの切断された広がりに固有の内包量と外延量を連結関係や切断関係に置く。それによって、その内包量として現実化している感覚どうしが私たちの思考において構成される。そして、その構成された感覚の多には繰り返されるものとそうでないものとがある。その内包量と外延量の連結関係や切断関係が繰り返されない場合、その感覚の多も繰り返されない。一方、音韻体系の場合、広口音や前舌音等の連結・切断関係が繰り返されることによって、その感覚の多(即ち、母音や子音)も繰り返される。しかし、こうした繰り返しはそこからの偏差が生じることを避けられない。例えば、広口音と狭口音の広がりの切断を繰り返すことは、それらの間に別の口の広がりの音が切断される可能性を常に用意する。それ故、そうした偏差を緩和する何らかの機構を持たない限り、その連結・切断関係が変化してしまうことは避けられない。そのとき、その母音や子音を繰り返すことが不可能になる(注11)
ところで、その繰り返される感覚の多は、そこで現実化される情動がその連結・切断関係によって制限されている。つまり、広口音や前舌音等の感覚が現実化することの出来る情動は「有」あるいは「無」という内包量でしかない。一方、新しい石器作製技術の発生においては、その感覚の現実化する情動がその内包量と外延量のシークエンスに制限されることはない。そのシークエンスは私たちの身振りに反復をもたらす。例えば、「石で石を垂直に打撃して、刃を持つ石核を作る」というシークエンスによって、「石で何かを打つ」という身振りに様々な偏差を巻き込む反復がもたらされる。このとき、そのシークエンスは繰り返されておらず、「石で石を打つ」という身振りもその反復に巻き込まれた偏差の一つに過ぎない。その広がりが反復するとき、それと平行して、私たちの思考する感覚も反復する。反復する感覚は、繰り返されない感覚のように、ただ一つの情動を現実化するのではない。しかしまた、繰り返される感覚のように、制限された情動を現実化するのでもない。そうではなくて、その感覚は自らが反復することを通じて、自らが潜在させている多種多様な情動のいずれかをそのまま現実化するのだ。なぜならば、身振りの反復が様々な偏差を巻き込むのと平行して、それらの情動が感じられるだけだからである。しかし、それらの情動はそのシークエンスにおいて連結関係や切断関係に置かれている当の内包量ではない。なぜならば、それらの内包量を持つ広がりがその広がりの反復に巻き込まれているため、それらの広がりをその広がりから切断することなど不可能だからである。切断されていない以上、その広がりに固有の内包量を感じることは出来ない。このとき、私たちが感じるのは「何かが生成する」という以外にいかなる質も持たない情動、即ち、生成の情動である。その感覚はそれらの情動がその都度現実化することで反復する。
しかし、石器作製技術の模倣において、こうした情動が感じられることはない。私たちはそのシークエンスにおける内包量と外延量を捉える。即ち、その石材や石具の形状、重さ、質感、その運動の方向と速さ、その石器の形状や質感など。そのシークエンスが繰り返される限りにおいて、それらの内包量として現実化される感覚の多も繰り返される。このとき、もはやその広がりにその繰り返しからの様々な偏差は巻き込まれていない。例えば、「石具による法線方向と接線方向の打撃を適切に配分して、一つの石核から様々な石器を計画的に切り出してゆく」というシークエンスが繰り返されるとき、「石核」から「剥片」へとその重点を移動させることはもはやその思考の偏差ではなく、そのシークエンスの一部をなすに過ぎない。むしろ、このとき、その繰り返しからの偏差を緩和する機構を持たない限り、そのシークエンスはやがて繰り返されなくなるだろう。なぜならば、石塊の形状、重さ、質感にも、それらを打ち合わせる運動の方向と速さにも、その打撃によって生じる石核や薄片の形状や質感にも、様々な内包量と外延量があるからである。

   *
 
 感覚に消滅するもの、繰り返されるもの、反復するものの三つがあるのはなぜだろうか。それは実体の有限様態にそれらに対応するものがあるからである。有限様態とは実体の変様である。この変様は実体の三重の変様である。即ち、実体の自らにおける無限様態への変様、実体の無限様態における極限様態への変様、そして、実体の極限様態における有限様態への変様である。それ故、無数の微粒子どうしが無限の広がりにおいて、互いに距離を持って存在し、かつ、無限に相互作用している。そして、すべての有限様態が無限の広がりにおいて、無数の微粒子どうしの無限の相互作用によって生成する。故に、有限様態には次の三つのタイプがある:
1. その広がりを占める微粒子どうしが何らかの運動や静止をなすが、その運動や静止が速やかになされなくなるもの。
2. その広がりを占める微粒子どうしが何らかの運動や静止を繰り返すもの。ただし、その運動や静止の繰り返しには、微粒子どうしの無限の相互作用によって絶えずそれからの偏差が生じている。
3. その広がりを占める微粒子どうしが何らかの運動や静止を繰り返すばかりでなく、その繰り返しからの偏差を巻き込んで、その運動や静止を反復するもの。
 無限の広がりを占める微粒子どうしは永遠に近づき合うか、永遠に遠ざかり合うか、あるいは、互いに静止している。また、そこでは微粒子どうしの無限の相互作用によって、一群の微粒子が他の微粒子たちと異なる運動や静止をなす。この第一特徴からの偏差は絶えず生じている。ところで、ある微粒子群における運動や静止が第一特徴をなすだけならば、その微粒子群を他の微粒子たちから区別することは出来ない。従って、その微粒子群は他の微粒子たちとともに無限の広がりを占めているだけである。一方、ある微粒子群における運動や静止が第一特徴からの偏差をなすのならば、その微粒子群は他の微粒子たちから区別される。この区別によって、その微粒子群の占める広がりは無限でなくなる。しかし、そのように限定されるだけでは、その微粒子群における運動や静止が繰り返されることはない。従って、その運動や静止は速やかになされなくなり、その有限様態は無限様態の中に消滅する。そうした有限な広がりどうしが互いに連結するとき、それらの広がりを占める微粒子どうしがその運動や静止を繰り返し始める。なぜならば、それぞれの微粒子群(X1,X2,…,Xn)における運動や静止が繰り返されるべく、それらの微粒子群の連結(X1+X2+…+Xn)において新たな相互作用が生じるからである。
微粒子群Xn(n≧2)における第一特徴からの偏差は、無限の広がりにおける無数の微粒子どうしの相互作用によって生じるものである。一方、それらが連結した微粒子群
における相互作用はその有限な広がりを占める微粒子どうしの間にだけ生じるものである。即ち、X1とX2が連結するとは、X1における運動や静止がX2における運動や静止を繰り返させるように働き、また、X2における運動や静止がX1における運動や静止を繰り返させるように働くということである。仮にX1における運動や静止がX2における運動や静止を繰り返させるように働くとしても、X2における運動や静止がX1における運動や静止を繰り返させるように働くのでなければ、X1における運動や静止は速やかになされなくなるのだから、それらの運動や静止が繰り返されることはない。そして、X1とX2とX3が連結するとは、第一に、X1とX2が連結し、かつ、X2とX3が連結し、かつ、X3とX1が連結するという三つの連結のすべてが成立することであり、第二に、これら三つの連結のうち、二つは成立するが、残りの一つは成立しないことである。ただし、後者の場合、その連結しない微粒子群の運動や静止は互いに相手を排除しないという条件を満たさなければならない。なぜならば、仮にX1とX2、X2とX3がそれぞれ連結しても、X3とX1の運動や静止が互いに相手を排除するのならば、X1の運動や静止が繰り返されるとき、X3の運動や静止が繰り返されず、逆に、X3の運動や静止が繰り返されるとき、X1の運動や静止は繰り返されなくなってしまうからである。この場合、結局のところ、一方の連結だけが残るか、どちらの連結も残らないかのいずれかである。このことはX1とX2、あるいは、X2とX3が連結せず、他が連結している場合も同様である。そして、X1,X2,X3,X4が連結するとは次の四つの場合のいずれかである(以下、傍線は微粒子群どうしの連結を表す。また、丸の中はX1,X2,X3,X4のいずれの微粒子群でもよい):
1. それらの微粒子群すべてが互いに連結するもの。






 
2. これら六つの連結のうち、ひとつが欠けているもの。ただし、その連結しない微粒子群の運動や静止は互いに相手を排除しないものとする。






 
 
3. これら六つの連結のうち、二つが欠けているもの。ただし、その連結しない微粒子群の運動や静止は他の微粒子群の運動や静止を排除しないものとする。







4. これら六つの連結のうち、三つが欠けているもの。ただし、その連結しない微粒子群の運動や静止は他の微粒子群の運動や静止を排除しないものとする。








それらの連結しない微粒子群の運動や静止が他の微粒子群の運動や静止を排除する場合、三つ微粒子群の連結に縮小するか(2,3,4)、二つの微粒子群の連結に縮小するか(2,3,4)、あるいは、すべての連結を失うか(3,4)のいずれかである。
三つの微粒子群の連結に関して、そのうちの二つの微粒子群が排除し合わないことが条件とされているものを「開かれている」とするならば、もう一方は「閉じている」ことになる。この観点からすると、4.の場合が開かれているのに対して、3.の場合は閉じている。そして、2.の場合はその部分として二つの閉じた(三つの微粒子群の)連結を持ち、かつ、その全体が3.の場合と同様に閉じている。従って、それは三重に閉じている。また、1.の場合はその部分として四つの閉じた連結を持ち、かつ、その全体が3.の場合と同様に閉じている。従って、それは五重に閉じている。連結する微粒子群の数が更に増えれば、その場合分けの数も増える。しかし、それらはいずれも開かれたものと閉じたものに区別され、閉じたものは複数の閉じた部分と全体の重合したものとなる。
三つ以上の微粒子群が相互作用する場合、こうした連結以外にもそれらの微粒子群が互いに相手の運動や静止の繰り返しを支えるやり方がある。今、ここに第一特徴からの偏差をなす三つの微粒子群X1,X2,X3があるとする。このとき、X1の運動や静止がX2の運動や静止の繰り返しを支え、X2の運動や静止がX3の運動や静止の繰り返しを支え、かつ、X3の運動や静止がX1の運動や静止の繰り返しを支えるのならば、それらが連結していなくとも、その全微粒子群X1+X2+X3の運動や静止は繰り返されることになる:
                
相互作用する微粒子群の数が四つ以上に増えたとしても同じことである。しかし、連結の場合とは異なり、微粒子群どうしの支え合いは必ず閉じていなければならない。また、連結が双方向的であるのに対して、こちらは一方向的である。それ故、こちらを「単連結」と呼ぶのならば、連結の方は「二重連結」ということになる。そして、全微粒子群の運動や静止の繰り返しをもたらす微粒子群どうしの相互作用には、これら単連結や二重連結ばかりでなく、それらの混合したものもある。
こうして、n個の微粒子群が連結することによって、その運動や静止が繰り返される。従って、この繰り返しを可能にする相互作用は有限な微粒子群におけるものである。ところで、その微粒子たちは互いに相互作用するばかりでなく、無限の広がりを占めている他の微粒子たちとも相互作用している。それ故、それらの微粒子群においても、その有限な相互作用によるものとは異なる運動や静止がなされている。つまり、運動や静止が繰り返されるところでは、その繰り返しからの偏差もまた絶えず生じているのだ。故に、微粒子群どうしが連結しても、それによってもたらされる繰り返しは不可逆的に減衰し、その有限様態はやがて無限様態の中に消滅する。
ここで再び微粒子群どうしの連結について考えてみよう。その連結は第一に、一方の微粒子群における運動や静止が他方の微粒子群における運動や静止を繰り返すように働くことであり、第二に、その働きが同時的にそれらの微粒子群において生じることである。それ故、有限様態の部分と全体が一機に生じる以外に、それらが繰り返されることはない。なぜならば、諸部分の運動や静止が互いに支え合う限りにおいてしか、全体の運動や静止が繰り返されることはないからである。ある微粒子群において、その運動や静止の反復をもたらすものはこれと大分異なる。その有限様態は諸部分が互いに支え合うことによって成立するのではなく、第一に、無限の広がりを占める微粒子たちの一群において、第一特徴と異なる運動と静止がなされることであり、第二に、その運動や静止が繰り返されるべく、その微粒子群が自らと相互作用するということである。ところで、どのような微粒子群も、その第一特徴からの偏差が他の微粒子たちの運動や静止によって支えられなければ、その運動や静止を繰り返すことが出来なかった。また、どのような微粒子群も、その繰り返しからの偏差に絶えず晒されており、そのことがその繰り返しを不可逆的に減衰させる原因であった。ある微粒子群が自らと相互作用するということは、それが他の微粒子群の支えを持たないということである。その運動や静止は自らと異なる運動や静止として、その繰り返しからの偏差を持つのみである。その運動や静止の繰り返しは、その繰り返しからの偏差そのものによって支えられているのだ。
繰り返しの場合、一方の部分で繰り返される運動や静止が他方の部分の運動や静止の繰り返しを支え、他方の部分で繰り返される運動や静止が一方の部分の運動や静止の繰り返しを支えるため、まさしくその運動や静止の全体が繰り返される。従って、繰り返されない運動や静止はすべてその繰り返しからの偏差である。それに対して、反復の場合、繰り返しからの偏差をなす運動や静止がその繰り返しを支える。なぜならば、繰り返されない運動や静止をなす微粒子たちが、別の微粒子たちに対して、その繰り返される運動や静止をなすように働き掛けるからである。当然のことながら、その繰り返しを支える運動や静止は繰り返されない。また、繰り返されない運動や静止は数限りなくある。従って、もしもその繰り返しを支える運動や静止が僅かしかないのならば、その繰り返しからの偏差の増大によって、その繰り返される運動や静止はたちまち繰り返されなくなるであろう。反復にはその繰り返しを支える、それ自身は繰り返されない運動や静止が十分にある。それ故、ある微粒子たちの運動や静止がその繰り返しを支えなくなってしまっても、また別の微粒子たちの運動や静止がそれを支える。微粒子たちはその運動や静止をなしては、次の瞬間、別の運動や静止へと分散してゆく。これが繰り返されることによって、その繰り返される運動や静止が反復する。逆に言えば、反復する運動や静止は、繰り返されない運動や静止をなす微粒子たちが、それらのすべてではないまでも、その繰り返しを支えるのには十分に、別の微粒子たちに対して、その繰り返される運動や静止をなすように働き掛ける、そうしたものなのだ。これは奇跡でも何でもない。私たちの身の回りに存在する最もありふれた物体から、最も希少な物体まで、それらの微粒子群においては、そうした運動や静止がなされている。
既に述べたように、繰り返されない運動や静止をなす微粒子たちのすべてが、他の微粒子たちに対して、そのように働き掛けるわけではない。従って、他の微粒子たちに対してそのように働き掛けた微粒子たちは、次の瞬間、その運動や静止によって繰り返しを支える別の微粒子たちに働き掛けられるのならば、それら自身がその反復する運動や静止をなすが、一方、そのように働き掛けられないのならば、それら自身は別の運動や静止をなすことになる。そして、その別の運動や静止がその繰り返しを支えるものであるのならば、それらの微粒子は再び、別の微粒子たちに対して、その繰り返される運動や静止をなすように働き掛けるが、一方、そうでないのならば、別の運動や静止へと分散してゆく。こうした過程を通じて、その運動や静止によって反復を支える微粒子が増加すれば、その物体は活動力を増大させる。しかし、その増加は分散する微粒子の減少を必ずしも伴わない。むしろ、その増加を伴うことすらある。なぜならば、反復する運動や静止をなす微粒子自体の総数が増加することによって、その反復に直接関与する相互作用の総数もまた増加するからである。逆に、その運動や静止によって反復を支える微粒子が減少すれば、その物体は活動力を減少させる。しかし、その減少は分散する微粒子の増加を必ずしも伴わない。むしろ、その減少をともなうことすらある。なぜならば、反復する運動や静止をなす微粒子自体の総数が減少することによって、その反復に関与する相互作用の総数もまた減少するからである。
反復は繰り返しと異なり、繰り返される運動や静止の支え合いを必要としない。しかし、だからと言って、反復がそうした繰り返しを排除するわけではない。繰り返される運動や静止の中には反復を支えることの出来るものもある。なぜならば、繰り返される運動や静止をなす微粒子たちが、他の微粒子たちに対して、その反復する運動や静止をなすように働き掛けることがあるからである。逆に言えば、反復する運動や静止は、繰り返される運動や静止をなす微粒子たちが、それらのすべてではないまでも、その反復を支えるのには十分に、他の微粒子たちに対して、その反復する運動や静止をなすように働き掛ける、そうしたものであり得るということである。同様のことが、繰り返される運動や静止ばかりでなく、別の反復する運動や静止にも言える。即ち、反復する運動や静止は、別の反復する運動や静止をなす微粒子たちが、それらのすべてではないまでも、その反復を支えるのには十分に、他の微粒子たちに対して、その反復する運動や静止をなすように働き掛ける、そうしたものでもあり得るということ。
従って、反復には次の三つのタイプがある。①繰り返されない運動や静止のみに支えられた反復、②それに加えて、繰り返される運動や静止に支えられた反復、③それらに加えて、別の反復する運動や静止に支えられた反復。①と②は最単純物体の場合であり、逆に、最単純物体にはそれらに対応した二種類があるということである。一方、③は第n種物体の場合である。①の場合、繰り返されない運動や静止だけで、その反復を支えるのに十分である。一方、②の場合、それだけでは不十分であり、繰り返される運動や静止がそれに加えられなければならない。また、③の場合、それらだけでは不十分であり、別の反復する運動や静止がそれらに加えられなければならない。
②や③の場合、反復する微粒子群は繰り返される部分や別の反復する部分を持つことになる。しかし、繰り返されるだけの微粒子群とは異なり、これらの反復する微粒子群においては、その繰り返される諸部分や別の反復する諸部分どうしが相手を排除する場合でも、その反復は必ずしも縮小したり、減衰したりしない。それどころか、ある部分が他の部分に排除されることによって、その反復自体が強化されることすらあるのだ。なぜならば、どのような反復も、様々な繰り返されない運動や静止によってその繰り返しが支えられているため、たとえその繰り返される部分や別の反復する部分が排除されたとしても、他の部分における運動や静止がその反復を支えるのに十分であれば、その反復自体が不可能になることはないからである。そして、もしもその部分の消滅に伴って、より多くの微粒子が他の微粒子たちに対して、その反復する運動や静止をなすように働き掛けるのならば、その物体は活動力を増大させる。それ故、反復する微粒子群においては、そのような矛盾が必ずしも縮小や減衰をもたらさないばかりでなく、逆に、その物体に進化や発展をもたらすことすらある。しかし、誤解しないで頂きたい。進化や発展は矛盾を原因とするわけではない。物体の諸部分間に矛盾のある場合も、矛盾のない場合も、その全体が発展することもあれば、進化することもある。なぜならば、物体の発展や進化とは、その反復が強化された微粒子群において、新しい繰り返しや別の反復をなす、より多くの微粒子がその反復を支えるようになることだからである。
第n種物体に限らず、繰り返される出来事も、繰り返されない出来事も、微粒子だけを構成要素とするのではない。物体や別の繰り返される出来事もまた、それらの出来事の構成要素となる。無限様態のただ中に何らかの物体や繰り返される出来事が生成すると、それらの物体や出来事を構成する微粒子はその構成関係に従って、他の微粒子たちと相互作用し始める。しかし、複数の有限様態が生成したとしても、それらの微粒子群が互いに相手の相互作用域の外部に存在するのならば、一方を構成する微粒子と他方を構成する微粒子は近づき合うか、遠ざかり合うか、互いに静止するかのいずれかでしかない。このとき、それらの有限様態の間にはどのような出来事も起こらない。一方、それらの微粒子群の一方が相手の相互作用域の内部に存在するのならば、その運動や静止は第一特徴からの偏差をなす。このとき、それらの有限様態の間で何かが起こる。しかし、それだけであるのならば、その出来事が繰り返されることはない。なぜならば、その出来事が繰り返されるためには、それらの有限様態を構成する微粒子が、他の微粒子たちに対して、そのように働き掛けなければならないからである。なるほど、それらの微粒子は相互作用している。しかし、だからと言って、それらが他の微粒子たちに対して、その出来事の運動や静止を繰り返すように働き掛けるとは限らない。このとき、それらの有限様態の間では、それ自体は繰り返されることのない、様々な出来事が起こっては消えてゆくだけである。
複数の有限様態を構成する微粒子群が相手の相互作用域の内部に存在し、かつ、それらの微粒子が他の微粒子に対して、その繰り返しをなすように働き掛けるのならば、その出来事は繰り返される。しかし、その出来事が繰り返されるようになっても、その繰り返しからの偏差が大きくなれば、やがてそれは繰り返されなくなる。ところで、その出来事の構成要素はそれ自身で繰り返されているか、反復しているかのいずれかである。それ故、たとえそれらから構成された出来事が繰り返されなくなっても、その構成要素をなす出来事が繰り返されなくなるとは限らず、また、その構成要素をなす物体も消滅するとは限らない。このとき、それらの出来事や物体は別の出来事の構成要素となるか、あるいは、それらの微粒子群が互いに相手の相互作用域の外部に存在するようになるかのいずれかである。この点、繰り返される出来事と第n種物体との間に違いはない。即ち、第n種物体の消滅後、それを構成する物体が消滅するとは限らず、また、それを構成する出来事も繰り返されなくなるとは限らない。しかし、第n種物体の場合とは異なり、繰り返される出来事の構成要素は互いに相手を排除するものであってはならない。なぜならば、もしも一方の構成要素が他方の構成要素を排除するのならば、その出来事は自らの構成要素の一部を失うことになり、従って、それらの要素から構成された出来事が繰り返されることも不可能になるからである。それ故、第n種物体がその部分どうしの矛盾を許容するのに対して、繰り返される出来事にはそうした矛盾を許容することが出来ない。

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物体の相互作用域は、その物体を構成する微粒子が他の微粒子たちに働き掛ける場であるとともに、それらが他の微粒子によって働き掛けられる場でもある。物体と精神は平行する。しかし、その精神が平行するのは、他の微粒子によって働き掛けられる、その物体を構成する微粒子たちの広がりばかりではない。それらの微粒子に働き掛ける、他の微粒子たちの広がりもまたその精神と平行するのだ。他の微粒子たちはそれぞれ近づき合うか、遠ざかり合うか、互いに静止している。あるいは、その運動と静止が第一特徴からの偏差をなしているか、繰り返される出来事を構成しているか、他の物体(その物体の構成要素も含む)を構成している。ところで、既に述べたように、感覚もまた思考の能動的様態であり、精神は諸感覚から構成されている。そして、感覚と平行する微粒子たちは、その物体を構成する微粒子とその相互作用域を占める微粒子のうち、他の物体あるいは出来事から働き掛けられているものと、他の物体あるいは出来事を構成する微粒子とその相互作用域を占める微粒子のうち、その物体に働き掛けているものとからなる。それ故、感覚には次の三つのタイプがある。①繰り返されない出来事からの働き掛けによるもの、②繰り返される出来事からの働き掛けによるもの、③他の物体からの働き掛けによるもの。しかし、繰り返される出来事からの働き掛けによるからと言って、その感覚が繰り返されるわけではない。また、他の物体からの働き掛けによるからと言って、その感覚が反復するわけではない。なぜならば、感覚と平行する微粒子たちは、一方が他方に働き掛け、他方が一方に働き掛けられるだけでは、その運動や静止が繰り返されることもなく、また、反復することもないからである。それらの感覚が繰り返されるためには、それらと平行する微粒子たちの運動や静止が互いに相手の繰り返しを支えるようにならなければならない。従って、繰り返されることになるのは、互いに相手の繰り返しを支え合う感覚の多である。勿論、感覚の多であれば、それと平行する微粒子群の運動や静止が繰り返されているというわけではない。また、それが反復するというわけでは更にない。それらの感覚と平行する微粒子郡には、他の微粒子群の相互作用域に入るものもあれば入らないものもある。それらの微粒子群が占める広がりのいつかどこかで、それ自体は繰り返されることのない運動や静止をなす微粒子が他の微粒子たちに対して、その繰り返しをなすように働き掛ける、そうした運動や静止が生起する。そのとき、その広がりと平行する感覚が反復する。
これらの感覚は切断されていない。しかし、切断された感覚に関しても、事情は変わらない。切断された諸感覚の内包量と外延量どうしを連結関係や切断関係に置くことは、それらの感覚と平行する微粒子群の一方を他方の相互作用域に置くことである。しかし、相手の相互作用域に置かれるだけでは、それらの微粒子群の運動や静止が繰り返されることもなければ、反復することもない。確かに、微粒子たちの運動や静止が第一特徴から偏差をなすだけでも、私たちはその微粒子たちの占める広がりを切断することが出来る。しかし、その有限様態が無限の広がりの中に消滅してしまうため、その内包量と外延量はたちまち「=0」になってしまう。内包量と外延量が「=0」以外の値を採るためには、その感覚と平行する微粒子群の運動や静止が繰り返されなければならない。ところで、ある微粒子群の運動や静止が繰り返されるためには、他の微粒子群の運動や静止がその繰り返しを支えなければならない。諸感覚が切断されている場合、私たちはそれらと平行する微粒子群どうしが互いに相手の運動や静止の繰り返しを支えるように、それらの内包量と外延量を連結関係や切断関係に置くことが可能になる。
例えば、母音の場合、私たちは先ず、音声を出すことの出来る「口」という器官の感覚を切断する。次に、その器官の感覚を「口を開く大きさ」と「唇の形」と「舌の位置」という三つの部分に切断する。そして、それぞれを更に「広い口」と「狭い口」、「平たい唇」と「丸い唇」、「前寄りの舌」と「後寄りの舌」に切断する。しかし、広い口の発する音声であれ、狭い口の発する音声であれ、それぞれの感覚だけではそれを繰り返すことが出来ない。なぜならば、口の開き具合には様々なものがあり、どこまでを「広い」とし、どこまでを「狭い」とするのか、あらかじめ決まっているわけではないからである。「広口音」という内包量と「狭口音」という内包量が切断関係に置かれることによって、それらの感覚と平行する微粒子群どうしは互いに相手の運動や静止の繰り返しを支えることになる。即ち、「広口音」とは様々な口の開き具合に応じて発せられる音声の中で「狭口音」でないもののことであり、一方、「狭口音」とは様々な口の開き具合に応じて発せられる音声の中で「広口音」でないもののことである。同様にして、「平唇音」と「丸唇音」も、「前舌音」と「後舌音」も、それらの内包量を切断関係に置くことによって、それらの感覚と平行する微粒子群どうしが互いに相手の運動や静止の繰り返しを支えている。また、どのような音声も、口の開き具合だけで発声できるものではない。口を広く開けた音声を発するためには、唇も何らかの形を採らなければならず、舌もどこかに位置しなければならない。同じく、唇の形だけ、舌の位置だけで発声できる音声などない。「広口音」あるいは「狭口音」も、「平唇音」あるいは「丸唇音」も、「前舌音」あるいは「後舌音」も、それら三つの内包量が連結関係に置かれることによって、それらの感覚と平行する微粒子群どうしは互いに相手の運動や静止の繰り返しを支えることになる。
こうした繰り返しを支える微粒子群は、内包量と外延量の連結・切断関係に組み込まれた諸感覚と平行するものばかりではない。また、その微粒子群と平行する感覚は必ずしも切断されていない。母音の連結・切断関係が可能になるためには、その部分的音声の内包量が「有」または「無」となるように、それらの感覚と平行する微粒子群がその運動や静止を繰り返していなければならない。そして、その繰り返しを支えているのは「口」の諸感覚と平行する微粒子群の運動や静止ばかりではない。それ以外の身体感覚と平行する微粒子群の運動や静止もまたそれを支えている。しかし、それらの身体感覚はその連結・切断関係に組み込まれていないし、必ずしも切断されていない。例えば、どのような母音も、「声帯」という器官の感覚なしには発声することが出来ないが、その器官の感覚は母音の連結・切断関係には組み込まれていない。一方、それは子音の連結・切断関係には「声音」という内包量として組み込まれている。たとえその感覚が母音の連結・切断関係に組み込まれていなくとも、それと平行する微粒子群の運動や静止がその部分的音声の感覚と平行する微粒子群の運動や静止の繰り返しを支えなければ、それらの内包量が「=0」以外の値を採ることはない。そして、口・舌・喉・胸・腹と連動した様々な筋肉の感覚、肺や横隔膜などの内臓の感覚、それらの運動や聴覚に関する神経の感覚などに至っては、通常切断されてすらいない。しかし、そうした一切の感覚と平行する微粒子群の運動や静止がその繰り返しを支えなければ、それらの内包量が「有」あるいは「無」という値を採ることはない。内包量と外延量の連結関係や切断関係が感覚の多の繰り返しをもたらすとき、それらの感覚と平行する微粒子群どうしは互いに相手の運動や静止の繰り返しを支えているばかりでなく、その連結関係や切断関係に組み込まれていない諸感覚と平行する微粒子群の運動や静止もまたその繰り返しを支えている。
言語が記号系であることは誰もが認めるところである。しかし、言語を待つまでもなく、母音と子音からなる音韻体系だけでも既に記号系である。なぜならば、次の三つの要件を満たしているのならば、それは立派な記号系だからである:
1. 諸感覚の内包量と外延量を連結関係や切断関係に置くこと、
2. その連結関係や切断関係のもたらす感覚の多が繰り返されること、
3. その繰り返しが複数の個体間に広がっていること。
諸感覚が切断されていないとしても、その感覚の多が繰り返されることはある。しかし、そのような感覚の多を「記号」と呼ぶことは出来ない。なぜならば、記号は他の繰り返される感覚とは異なり、切断された感覚に固有の内包量と外延量をその構成要素とするからである。逆に、たとえ内包量と外延量から構成されているとしても、その感覚の多が繰り返されないのならば、それは記号ではない。確かに、内包量と外延量の連結関係や切断関係はそれらの感覚と平行する微粒子群どうしを相手の相互作用域に置く。しかし、その出会いによって、その感覚の多が繰り返されるようにならないのならば、それは精神に絶えず去来する諸感覚のひとつに過ぎない。
そして、たとえ内包量と外延量の連結関係や切断関係によって、その感覚の多が繰り返されるようになったとしても、その繰り返しが個体のうちに限られているのならば、それは記号ではない。なぜならば、記号系を可能にする連結関係や切断関係はそもそも複数の個体によって共有されるものだからである。各個体において、感覚と平行する微粒子たちは、その物体を構成する微粒子とその相互作用域を占める微粒子のうち、他の物体あるいは出来事から働き掛けられているものと、他の物体あるいは出来事を構成する微粒子とその相互作用域を占める微粒子のうち、その物体に働き掛けているものとからなる。それ故、ある出来事が複数の物体に働き掛けている場合、各個体の感覚と平行する微粒子たちは、それぞれの物体を構成するものとその相互作用域を占めるものばかりでなく、その出来事を構成する微粒子とその相互作用域を占める微粒子のうち、それぞれの物体に働き掛けているものとからなる。従って、その感覚と平行する微粒子群には、それらの物体に共通するものと異なるものとがあるわけである。なるほど、複数の物体が同じ微粒子たちから働き掛けられているとしても、それぞれの物体を構成する微粒子が異なる以上、各個体の感覚と平行する微粒子群が全体として同じものになることはない。しかし、個体の構成関係に共通性が多ければ多いほど、それらの物体はより多くの同じ微粒子たちから働き掛けられることになる。従って、ある個体の広がりにおいて、第一特徴からの偏差をなす微粒子群どうしが相手の相互作用域のうちに入るとき、他の個体の広がりにおいても、それらの個体に共通する微粒子どうしは相手の相互作用域のうちに入る。そして、このことはそれらの微粒子群と平行する感覚の多が繰り返されるときも、また、その感覚の多が反復するときも同様である。
各個体の感覚と平行する微粒子群が同じ微粒子を含むとしても、その内包量と外延量の連結関係や切断関係をなすのはそれぞれの個体である。従って、それらの個体のなす連結関係や切断関係が同じものになるとは限らない。感覚の多の繰り返しがその感覚の切断を必要としない場合、その感覚の持つ共通性の程度に応じて、感覚の多はそれらの個体間で繰り返される。それは即ち、各個体の感覚と平行する微粒子群が同じ微粒子を含むことのひとつの効果である。一方、記号系の場合、感覚の多の繰り返しが複数の個体間に広がっていることは、その感覚の多が記号であるために不可欠の要件である。そして、そのためにはそれらの個体が内包量と外延量の連結関係や切断関係を共有していなければならない。そうでない限り、たとえ感覚の多が繰り返されたとしても、それはひとつの個体の広がりにおいてのことでしかない。既に述べたように、同じ出来事から働き掛けられる感覚であっても、それを思考する個体が異なれば同じというわけにはいかない。しかし、個体の構成関係に共通性が多ければ、各個体の感覚と平行する微粒子群がそれだけ多くの同じ微粒子を含むことになる。そして、感覚そのものが異なるとしても、その微粒子群が多くの同じ微粒子を含むのならば、それらの個体はその内包量と外延量の連結関係や切断関係を共有することが出来る。なぜであろうか。以下にそのことを説明しよう。
内包量と外延量の連結関係や切断関係はその感覚と平行する微粒子群どうしを互いに相手の相互作用域に置く。そして、それらの運動や静止が互いに相手の繰り返しを支えることによって、その微粒子群全体の運動や静止が繰り返されることになる。ところで、この全体的な繰り返しをもたらす微粒子群の組み合わせはいつも同じである必要はない。異なる組み合わせであっても、それらの微粒子群が互いに相手の運動や静止の繰り返しを支え、かつ、その全体としての運動や静止が同じものであるのならば、その感覚の多はいつでも繰り返される。一方、各個体の感覚と平行する微粒子群は、それらの個体がその構成関係を共通させればさせるほど、より多くの同じ微粒子を含む。それらの微粒子は、当然のことながら、同じ運動や静止をなしている。また、それらの個体がその構成関係を共通させている以上、それらの微粒子に働き掛けられた各物体における微粒子の運動や静止も互いに共通したものとなる。従って、各個体の感覚と平行する微粒子群は、それらが同じ微粒子を含めば含むほど、それだけその運動と静止を共通させるわけである。
今、ある微粒子たちを共有する微粒子群をA1,A2,…,Am,…とし、別の微粒子たちを共有する微粒子群をB1,B2,…,Bn,…とする。A1とB1が互いに相手の運動や静止の繰り返しを支えるのならば、全微粒子群A1+B1の運動や静止は繰り返されることになる。このとき、A2とB2が互いに相手の運動や静止の繰り返しを支え、かつ、A2+B2がA1+B1とその運動や静止を共通させるのならば、その共通部分と平行する感覚の多がそれらの全微粒子群間で繰り返される。一般に、微粒子群AmとBnが互いに相手の運動や静止の繰り返しを支えるとき、微粒子群AkとBlも互いに相手の運動や静止の繰り返しを支え、かつ、全微粒子群Ak+BlがAm+Bnとその運動や静止を共通させるのならば、その共通部分と平行する感覚の多がそれらの全微粒子群間で繰り返される。それ故、各個体における内包量と外延量の連結関係や切断関係がその感覚と平行する微粒子群にこうした組み合わせ{Am,Bn}をもたらすのならば、その共通部分と平行する感覚の多がそれらの個体間でも繰り返されることになる。ところで、各個体の感覚と平行する微粒子群どうしは十分にその運動や静止を共通させている。従って、その感覚の多はそれらの個体間で繰り返されるわけである。
複数の個体が内包量と外延量の連結関係や切断関係を共有するとはそういうことである。そして、一度、その連結関係や切断関係が共有されると、各個体の感覚と平行する微粒子群が同じ微粒子を含まないとしても、その感覚の多はそれらの個体間で繰り返される。なぜならば、その連結関係や切断関係がその都度、その運動や静止を十分に共通させた微粒子群をもたらすことになるからである。ひとつの個体においても、複数の個体間においても、感覚の多が繰り返されるために、そこで組み合わされる微粒子群がいつも同じものである必要など少しもないのだ。

   *

既に繰り返されている感覚や既に反復している感覚を切断するのならば、その内包量と外延量は「=0」以外の値を採る。ところで、内包量と外延量の連結関係や切断関係はその感覚と平行する微粒子群の一方を他方の相互作用域に置く。従って、「=0」以外の値を採る内包量と外延量を連結関係や切断関係に置くことによって、私たちは既に繰り返されている微粒子群や既に反復している微粒子群どうしの出会いをもたらすことになる。そして、その出会いから、以下の運動や静止が生起する。
1. それらの微粒子群の運動や静止が繰り返されるか反復し続けるが、その相互作用によって生じる運動や静止は繰り返されることも反復することもない:
      
 このとき、既に反復している感覚は反復し続け、既に繰り返されている感覚は繰り返し続け、繰り返されない感覚は相変わらず繰り返されない。従って、これは私たちがその連結関係や切断関係をなす以前とほとんど変わりのない状態である。変化があるとすれば、それらの内包量と外延量の値がそれぞれの感覚を変えることなく増減するぐらいである。
2. その相互作用によって生じた運動や静止が繰り返されないばかりでなく、それらの微粒子群の運動や静止も繰り返されなくなる:
         
このとき、反復していた感覚や繰り返されていた感覚が繰り返されなくなる。それ故、それらの微粒子群どうしが出会わされた広がりを占めるのは、繰り返されない感覚だけということになる。この既存の感覚の消滅には、それらの微粒子群と平行する感覚の一つだけが繰り返されなくなる場合から、それらの感覚のすべてが繰り返されなくなる場合まで、様々な程度がある。
3. それらの微粒子群の運動や静止が繰り返されるか反復し続け、その相互作用によって生じる運動や静止も繰り返される:
              
 その相互作用によって生じる運動や静止が繰り返されるためには、それらの微粒子群においてそれぞれの運動や静止をなす微粒子が、他の微粒子たちに対して、その運動や静止を繰り返すように働き掛けなければならない。ところで、そのような出会いをなす微粒子群どうしの組み合わせには無限の系列がある。なぜならば、それらの微粒子群のいずれかがその相互作用によって生じた運動や静止の繰り返しを支え、かつ、それらの微粒子群全体の運動や静止が十分に共通するものであるのならば、それらの組み合わせはどのようなものであっても構わないからである。
今、それぞれの運動や静止が繰り返されている二つの微粒子群A1,A2があるとする。そして、それらが出会わされることで、その相互作用によって生じる運動や静止が繰り返されるのだが、それはA1がその運動や静止の繰り返しを支えるものとする。また、それぞれの運動や静止が繰り返されている、別の三つの微粒子群B1,B2,B3があるとする。そして、それらが出会わされることで、その相互作用によって生じる運動や静止が繰り返されるのだが、それはB1とB2がその運動や静止の繰り返しを支えるものとする。このとき、全微粒子群A1+A2とB1+B2+B3の運動や静止が十分に共通するものであるのならば、それらの微粒子群の組み合わせ{A1,A2}{B1,B2,B3}は同じ系列に属することになる。一般に、それぞれの運動や静止が繰り返されるか反復している微粒子群X1,X2,…,Xnがあり、それらが出会わされることで、その相互作用によって生じる運動や静止が繰り返されるとする。また、それぞれの運動や静止が繰り返されるか反復している微粒子群Y1,Y2,…,Ymがあり、それらが出会わされることで、その相互作用によって生じる運動や静止が繰り返されるとする。このとき、全微粒子群ΣXiとΣYjの運動や静止が十分に共通するものであるのならば、それらの微粒子群の組み合わせ{Xi}{Yj}は同じ系列に属する。
それらの微粒子群の運動や静止は既に繰り返されているか、あるいは、既に反復しているかのいずれかである。それ故、それらの運動や静止は他の運動や静止によって支えられる必要がない。従って、それらの運動や静止のいずれかがその相互作用によって生じた運動や静止の繰り返しを支えるのならば、全微粒子群の運動や静止が繰り返されるわけである。こうして、「=0」以外の値を採る内包量と外延量を新たな連結関係や切断関係に置くことによって、私たちは記号系を発展させることが出来る。
4. それらの微粒子群の相互作用によって、一方に、ある運動や静止が生じ、他方に、別の運動や静止が生じ、それらが互いに相手の繰り返しを支え合う。そして、その部分どうしの支え合いによって、その全体の運動や静止が繰り返される:
         
 3.の運動や静止と同様、このとき、既に反復している感覚は反復し続け、既に繰り返されている感覚は繰り返され続ける。しかし、3.の場合とは異なり、その相互作用によって生じた運動や静止は、それらの微粒子群の運動や静止によって、その繰り返しが支えられているわけではない。その繰り返しを支えているのはその部分どうしの支え合いである。従って、その全体はそれらの運動や静止の反復や繰り返しとは別個に、その運動や静止を繰り返しているわけである。それ故、その微粒子群と平行する感覚の多は、それらの感覚と異なったものになる。従って、私たちの精神はそれらの既に反復している感覚や既に繰り返されている感覚を思考するとともに、それらとは異なる、新たに繰り返される感覚の多を思考するわけである。
また、これは母音や子音が感覚される場合とも異なる。その記号系の場合、そこで連結関係や切断関係に置かれるものは、その感覚の多を構成する感覚そのものの内包量と外延量だけである。その連結・切断関係によって、その感覚と平行する微粒子群どうしが互いに相手の相互作用域に置かれ、それらの運動や静止が互いにその繰り返しを支え合い、そして、その感覚の多と平行する微粒子群の運動や静止が繰り返される。従って、その感覚の多の繰り返しをもたらすものは、それを構成する感覚そのものの内包量と外延量の連結関係や切断関係だけである。一方、こちらの場合、その感覚の多の繰り返しをもたらす内包量と外延量の連結関係や切断関係は、それを構成する感覚とは別の、既に反復している感覚や既に繰り返されている感覚の内包量と外延量の連結関係や切断関係によってもたらされる。従って、そこでは二種類の互いに異なる連結関係や切断関係が重なり合う。
例えば、既に繰り返されている感覚が母音と子音からなる「音節」である場合、それらの内包量を音の強弱の内包量と連結し、それらの外延量を音の長短の外延量と連結し、更に、その連結体どうしを連結・切断関係に置くことによって、私たちはその感覚の多を「リズム」として繰り返すことが出来る。これは音韻体系を発展させたものであり、従って、その運動や静止は3.の場合に他ならない。一方、その連結体を音の高低の内包量と連結し、その意味のない音声の束を私たちの記憶の内包量・外延量と連結し、更に、その連結体の連結体どうしを連結・切断関係に置くことによって、私たちはその感覚の多を「意味」として繰り返すことが出来る。これは音韻体系や記憶とともに、それらとは異なる意味体系が思考されるということであり、従って、その運動や静止は4.の場合である。また、その音声の束を意味と連結して「言葉」をなし、その言葉の束をリズムと連結し、更に、その連結体どうしを連結・切断関係に置くことによって、私たちはその感覚の多を「旋律」として繰り返すことが出来る。つまり、「語り」から「歌」への変化。記憶された「過去の出来事」(神話におけるものであれ、歴史におけるものであれ)を語るとき、私たちはそれらの言葉に「節」をつける。そのリズムがその言葉の束から「ピッチ」を解放する。そうした語りを通じて、私たちの精神において、様々な言葉の束の持つリズムとピッチが連結関係や切断関係に置かれる。そのとき、私たちは語りの意味を理解するばかりでなく、語られている言葉とは異なる音声の流れを聴くことになる。これは言語体系やリズム体系とともに、それらとは異なる音楽体系が思考されるということであり、従って、その運動や静止もまた4.の場合である(注12)
5. 微粒子群の運動や静止が繰り返されるか反復し続けるとともに、それらの相互作用によって生じた運動や静止が反復する:
      
 それらの微粒子群どうしの出会いから、その相互作用によって、それらの微粒子群いずれの運動や静止とも異なる、第三の運動や静止が生じる。しかも、それは単なる第一特徴からの偏差ではない。それはそれ自体繰り返されることのない運動や静止をなす微粒子が、他の微粒子たちに対してその繰り返しをなすように働き掛ける、そうした運動や静止である。それ故、その運動や静止はそれらの微粒子群の運動や静止によって、その繰り返しが支えられる必要がない。この点、それは4.の記号系の発生と同様である。しかし、記号系は諸部分の依存関係に基づく構成体である。その全体の運動や静止の繰り返しは、その諸部分の運動や静止が互いに相手の繰り返しを支えることで可能になる。一方、この反復する運動や静止をなす微粒子群は、その全体がそうした相互依存的諸部分から構成されているわけではいない。その微粒子群の特徴は、それが微粒子しか構成要素を持たないということである。この点、それは最単純物体と同様である。なるほど、最単純物体の運動や静止が実体の無限の広がりにおいて反復するのに対して、こちらの微粒子群の運動や静止は私たちの有限な広がりにおいて反復する。従って、最単純物体とは異なり、その微粒子群は私たちが存在しなければ存在しない。しかし、その微粒子群が微粒子以外に構成要素を持たない以上、それと平行する感覚が諸感覚から構成されることもない。それ故、その感覚は言わば「最単純なもの」となるのだ。
例えば、既に繰り返されている感覚が旋律である場合、私たちはその音の流れを音楽体系における切断関係に従って、様々なピッチやリズムに分割することが出来る。それ故、私たちはその分割線に沿って、その音の流れを切断することも出来る。しかし、実際に切断することは、単に分割することとは異なる。なぜならば、音の流れを切断することによって与えられる内包量は、音楽体系において既に繰り返されている感覚の内包量と異なるからである。実際の音をあるピッチにともなう分割線に沿って切断すると、その切断された感覚の内包量はそのピッチだけないことがただちに感じられるはずである。あの風の音は確かにAの音程だ。しかし、それを音程Aとして切断した瞬間から、その音がそれとは異なる内包量を持っているのが感じられる。その内包量の多くは、私たちの精神がそれを捉えるや否や、その値が「=0」になってしまう。なぜならば、それらはその感覚と平行する微粒子群の相互作用域における、繰り返されることもなければ、反復することもない運動や静止の活発さの程度だからである。しかし、その相互作用域における運動や静止の中にも、反復するものや繰り返されるものがないわけではない。このことは、実際の音をあるリズムにともなう分割線に沿って切断するときも同様である。また、その運動や静止が反復するにせよ、繰り返されるにせよ、私たちはそれらの微粒子群と平行する感覚を切断し、それらの内包量と外延量を連結関係や切断関係に置くことによって、それらの微粒子群どうしを互いに相手の相互作用域に置くことが出来る。そして、それらの微粒子群どうしの出会いから、ある微粒子たちの運動や静止が反復することもあるのだ。そうした運動や静止を生起させるために内包量と外延量の連結関係や切断関係を創出すること、それが音楽における創造である。
ところで、その反復する運動や静止が生起した後も、既に反復している感覚や既に繰り返されている感覚と平行する微粒子群の運動や静止はその反復や繰り返しを続けている。従って、それらの微粒子群と平行する感覚の多は、相変わらずそれらの感覚から構成されている。それ故、それらの相互作用から反復する運動や静止が生起するとき、私たちの精神はその諸感覚の構成体とともに、それとは異なる最単純な感覚を思考することになる。その最単純な感覚にともなう情動が「美しさ」である。注意してほしい。諸感覚の構成体が与えられるとき、私たちがそこで美しさを感じるとしても、それはその構成体自体に美しさを感じているのではない。そうではなくて、その反復する運動や静止をなす微粒子群と平行する感覚に美しさを感じるのだ。それ故、その美的感覚はその諸感覚の構成体と重なり合っている。そして、私たちの精神はその構成体全体に美しさを重ね合わせるばかりでなく、その諸部分に関してもまた美しさを重ね合わせる。なぜならば、その構成体と平行する微粒子群が複数の相互依存的な諸部分からなるのに対して、その美的感覚と平行する微粒子群はそうした部分を持たないからである。前者の微粒子群を諸部分に分割したとしても、後者の微粒子群が分割されるわけではない。それ故、後者の運動や静止が反復し続ける限り、前者をどれだけ分割したとしても、その美しさが失われることはない。
音楽の美しさは楽音そのものや楽曲そのものに感じられるのではない。どのような音であれ、音楽体系における連結関係や切断関係に従っているのならば、その音の構成体は音楽である。しかし、美しい音楽は単なる音楽とは異なり、その楽音や楽曲だけからなるのではない。美しい楽曲を構成する楽音は、その楽音の微粒子群でも、その楽曲の微粒子群でもない、第三の微粒子群と平行する感覚を帯びている。そして、その感覚そのものは、楽音のように「高さ」「強さ」「音色」「長さ」に分割することが出来ない。なぜならば、その第三の微粒子群は楽音や楽曲の微粒子群と異なり、微粒子以外のいかなる構成要素も持たないからである。音楽だけではない。美しいものはすべて、いかなる部分にも分割することの出来ない、そうした最単純な感覚を帯びている。
6. 微粒子群どうしの相互作用によって生じた運動や静止が繰り返されるとともに、それらの微粒子群の運動や静止が繰り返されなくなる:
         
微粒子群どうしの相互作用がその繰り返される運動や静止を生起させるとともに、それらの微粒子群の運動や静止の反復や繰り返しを不可能にすることがある。このとき、新しい感覚の多が繰り返されるようになるとともに、既存の諸感覚が繰り返されなくなる。この感覚の消滅には、それらの微粒子群と平行する感覚の一つだけが繰り返されなくなる場合から、それらの感覚のすべてが繰り返されなくなる場合まで、様々な程度がある。
ところで、5.で新しく生起した運動や静止は必ずしも個体間で反復しない。このとき、その感覚の美しさはそれを思考する個体だけに感じられるものである。また、4.で新しく生起した運動や静止は必ずしも個体間で繰り返されない。このとき、その感覚の多はそれを思考する個体においてのみ繰り返されるものであり、従って、それは記号の必須要件の一つ(その繰り返しが複数の個体間に広がっていること)を満たしていない。同じく、6.で新しく生起した運動や静止も、個体間で繰り返されるとは限らない。このとき、その感覚の多も記号ではない。
私たちは美的創造を狙い、既存の記号系のもたらす分割線に沿って、私たちの世界に切断を導入し、内包量と外延量の連結関係や切断関係を創出する。しかし、その試みは5.の運動や静止のように成功するとは限らず、1.の運動や静止のように、既存の記号系に従っているだけで何も起こらないこともあれば(このとき、たくさんの繰り返されない感覚は生成しているのであるが)、2.の運動や静止のように、既存の記号系が消滅してしまうこともある。あるいは、3.の運動や静止のように、既存の記号系を発展させることもあれば、4.の運動や静止のように、新しい記号系が生成することもある。あるいは、6.の運動や静止のように、新しい記号系が生成するとともに既存の記号系が消滅してしまうこともある。
例えば、私たちが音楽における美的創造を狙い、既存の記号系である旋法体系のもたらす分割線に沿って、楽音を切断しているとする。各旋法に沿って切断される実際の音は、私たちの精神に「高さ」以外の様々な内包量を与える。そして、私たちはそれらの感覚と平行する微粒子群どうしを出会わせるために、それらの感覚を切断し、それらの内包量と外延量を様々な連結関係や切断関係に置いてみる。しかし、その音の構成体は既存の旋法体系に従うだけの、退屈な楽曲になってしまうかも知れない。あるいは、その切断された感覚がそっくり消滅してしまい、もはやその内包量と外延量を連結関係や切断関係に置くことが出来なくなってしまうかも知れない。あるいは、私たちは新しい旋法を開発するなどして、既存の旋法体系を発展させるかも知れない。あるいは、こうした試みを通じて、旋法体系とは異なる記号系である調性体系が生成するかも知れない。あるいは、旋法体系が消滅してしまい、もはやそれについての形骸化した知識しか残らないかも知れない。
旋法体系とともに調性体系が思考される場合、私たちは同じ旋律を二つの異なる記号として同時に理解する。例えば、イオニア教会旋法の旋律はまたハ長調の旋律であり、エオリア教会旋法の旋律はまたイ短調の旋律である(注13)。しかし、私たちの精神において、「イオニア」として繰り返される感覚と「ハ長調」として繰り返される感覚は異なったものである。なぜならば、「イオニア」は「ヒポイオニア」「ドリア」「フリギア」「リディア」など、他の教会旋法との連結・切断関係において理解されるのに対して、「ハ長調」は「ハ短調」「イ短調」「ホ長調」「ト長調」など、他の調との連結・切断関係において理解されるからである。それは単なる知識としての理解ではなく、どちらで理解するのかに応じて、実際の楽音の響きが変わるのだ。従って、私たちがそれらの体系を同時に理解するのならば、その異なる響きを同時に聴くことが出来るわけである。一方、調性体系が生成するとともに旋法体系が消滅する場合、私たちはある旋律を何らかの旋法として聴くことが出来なくなる。例えば、ハ長調の旋律を聴いても、私たちはもはやそれをイオニア教会旋法の旋律として聴くことが出来ない。また、ドリア、フリギア、リディア、ミクソリディアなど、他の教会旋法の旋律を聴いても、私たちはそれらの響きを何らかの調としてしか聴くことが出来ない。
7. 微粒子群どうしの相互作用によって生じた運動や静止が反復するとともに、それらの微粒子群の運動や静止が繰り返されなくなる:
     
微粒子群どうしの相互作用がその反復する運動や静止を生起させるとともに、それらの微粒子群の運動や静止の反復や繰り返しを不可能にすることがある。このとき、美的感覚が生成するとともに、既存の諸感覚が繰り返されなくなる。この感覚の消滅には、それらの微粒子群と平行する感覚の一つだけが繰り返されなくなる場合から、それらの感覚のすべてが繰り返されなくなる場合まで、様々な程度がある。
従って、5.の運動や静止とは異なり、この美的創造においては記号系の存在しないことがある。そのとき、私たちはその感覚を音楽とも、絵とも、彫刻とも理解することが出来ない。なぜならば、一般に「芸術」と呼ばれるものは、それぞれに固有の感覚の分節化を可能にする、内包量と外延量の連結関係や切断関係を持っているからである。それ故、音楽には「楽音」という構成要素があり、絵には色と形からなる平面要素があり、彫刻には形とヴォリュームからなる立体要素がある。舞踏、詩や物語、演劇、映画その他の芸術も同様である。それはつまり、それぞれの芸術が美的感覚だけからなるのではなく、それぞれに固有の記号系を持つということである。
一方、そうした記号系が存在しない場合、私たちの有限な広がりの部分が、諸感覚の構成体をともなうことなく、そのまま美的感覚の宿るところとなる。その美的感覚が宿る以前、その広がりには楽音や平面要素や立体要素などが宿っていたはずである。なぜならば、その感覚と平行する微粒子群の運動や静止は、何らかの内包量と外延量の連結関係や切断関係のもたらす、微粒子群どうしの相互作用から生起したものだからである。そして、その内包量や外延量が連結関係や切断関係をなすところの感覚は、既存の記号系のもたらす分割線に沿って諸感覚を切断した際に生成するものであり、また、私たちが美的創造を狙うとき、もっとも自由に活用することの出来る記号系は芸術のそれだからである。その美的感覚の生成以後、それらの要素はすべて消滅する。つまり、かつてその広がりに宿っていたものが楽音だったとしても、私たちはそこにもはや楽音を認めることが出来ない。かつてその広がりに宿っていたものが平面要素だったとしても、私たちはそこにもはや平面要素を認めることが出来ない。あるいは、かつてその広がりに宿っていたものが立体要素だったとしても、私たちはそこにもはや立体要素を認めることが出来ない等々。こうした忘却は、調性以後、旋法の響きが聴こえなくなるのと同様である。私たちの精神はもはやそれらの要素を思考することが出来ない。私たちに出来ることは、そうした要素を一切持たない、最単純な感覚を思考することだけである。従って、そのとき、私たちの精神は最も純粋な美しさを感じることになる。

   *

さて、楽音の内包量である「高さ」「強さ」と楽音の束の内包量である「速さ」から、「母音」や「子音」に相当するものを分節することが出来ないだろうか。
今、議論を簡単にするため、「高さ」の内包量は「高」「中」「低」の3種にしか区別されず、「強さ」の内包量は「強」「平」「弱」の3種にしか区別されず、「速さ」の内包量は「速」「常」「遅」の3種にしか区別されないものとする。そして、次のように、それぞれの内包量を切断関係(|)に置き、更に、それらを連結関係(‐)に置く:

(高|中|低)‐(強|平|弱)‐(速|常|遅)。

このとき、その連結・切断関係から、

高音‐強音‐速音  中音‐強音‐速音  低音‐強音‐速音
高音‐強音‐常音  中音‐強音‐常音  低音‐強音‐常音
高音‐強音‐遅音  中音‐強音‐遅音  低音‐強音‐遅音
高音‐平音‐速音  中音‐平音‐速音  低音‐平音‐速音
高音‐平音‐常音  中音‐平音‐常音  低音‐平音‐常音
高音‐平音‐遅音  中音‐平音‐遅音  低音‐平音‐遅音
高音‐弱音‐速音  中音‐弱音‐速音  低音‐弱音‐速音
高音‐弱音‐常音  中音‐弱音‐常音  低音‐弱音‐常音
高音‐弱音‐遅音  中音‐弱音‐遅音  低音‐弱音‐遅音

という27(=3×3×3)音が区別される。従って、ある音の連なりが与えられたとき、精神はその「高さ」「強さ」「速さ」の変化に応じて、それを例えば、(高音‐強音‐速音)/(中音‐平音‐常音)/(低音‐弱音‐遅音)という三つの音に分節することが出来る。こうして、それらの27音を音節と同じように働かせることが出来る。
勿論、その「高さ」「強さ」「速さ」の内包量を更に細かく区別することが出来るのならば、それだけ多くの音が与えられる。即ち、「高さ」にn種、「強さ」にm種、「速さ」にl種あるとすると、原理上、(n×m×l)種の音を区別することが出来る。ただし、音声の「速さ」を感じるためにはある程度の持続時間が必要であり、そのため、この連結・切断関係によって分節される音の連なりは「いろは」に分節される音の連なりよりも相対的に長くなる。これを避けるため、その連結・切断関係から「速さ」の内包量を省くことも可能である。即ち、

(高|中|低)‐(強|平|弱)。

 この連結・切断関係から、

高音‐強音  中音‐強音  低音‐強音
高音‐平音  中音‐平音  低音‐平音
高音‐弱音  中音‐弱音  低音‐弱音

という9(=3×3)音が区別される。しかし、この場合、「高さ」と「強さ」の内包量を十分に細かく区別しなければ、音節に匹敵するだけの種数を確保することが出来ない。
日本語の場合、5種の「母音」と25種の「子音」や「半母音」があるので、原理上、125(=5×25)音を区別することが出来る(実際の種数はもっと少ない)。従って、私たちが2オクターブの音の発声を共有出来るのならば、「高さ」には「変音」や「嬰音」も含めて25種あることになり、故に、「強さ」を5種に区別することが出来れば、日本語と同じだけの音韻の種数を確保したことになる。こうして、音楽的要素によっても、言語に必要な「音節」を揃えることが出来るわけである。


                       *

刺激‐反応のループは複数の神経要素が互いに連結し、また一方の連結が他方の連結を切断することによって形成されている。そうした神経要素の連結と切断の中には、その反応への中継をなさないものもある。反応を中継する連結と切断をそのループの「幹」と呼ぶのならば、それから外れるものは「枝」である。


神経の秩序が複雑になってゆくのにつれて、枝の長さや数も増大してゆく。それぞれの枝にはその連結と切断の秩序がある。こうして、何らかの刺激が与えられるとき、音、明暗、色など、その刺激にともなう感覚は幹を通って特定の反応へと中継されるばかりでなく、枝を通って様々な連結と切断の秩序へと分散してゆく。そして、その刺激が再び与えられるとき、かつてと同じ枝につながる場合もあれば、逆にかつてとは異なる枝につながる場合もある。あるいは、別の刺激が与えられるとき、それと異なる枝につながる場合もあれば、逆にそれと同じ枝につながる場合もある。いずれにせよ、かつてと同じ枝につながる場合、それと平行してかつての感覚が精神において繰り返されることになる。この繰り返される感覚を私たちは「記憶」と呼ぶ。そして、ある刺激に何らかの記憶がともなうとき、その刺激と記憶とが連結することによって、その反応をもたらす刺激が新たに編成し直される場合がある。例えば、歌やダンスを学ぶ鳥たちの場合であり、学ばれた歌やダンスはテリトリーや求愛に関する刺激‐反応の幹に組み込まれている。また、記憶のともなう刺激を繰り返し与えることによって、最後にはその刺激がなくとも記憶だけで同じ反応を引き起こすことが出来るようになる場合もあり、この所謂「刷り込み」も記憶による刺激の再編成の一つである。
個体がある刺激に反応して行動するとき、その刺激‐反応の幹の活動はその枝の活動よりも活発である。しかし、これとは逆に、その枝の活動が幹の活動より活発になる場合がある。このとき、個体はその枝における神経要素の連結と切断に平行する感覚を知覚する。そのように知覚することを私たちは「想起」と呼ぶ。例えば、夢を見るということは、様々な刺激‐反応の幹の活動が不活発になり(この状態を私たちは「睡眠」と呼ぶのであるが)、その結果、その枝の活動が相対的に活発になり、その活発になった活動と平行する感覚が個体によって知覚されるということである。また、昔の出来事を思い出すということは、その枝の活動が幹の活動よりも活発になり、かつ、その枝がかつてその出来事を知覚したときと同じものであり、それ故、その活動が活発になるのと平行して、かつての知覚が精神において繰り返されるということである。いずれにせよ、想起は刺激‐反応の幹がその枝を持つのならば生じ得ることであり、それが生じたからと言って、その感覚がその幹から解放されているわけではない。枝と平行する感覚が解放されるためにはその幹を分解しなければならない。なぜならば、幹が分解されるとき初めて、その感覚と平行する神経要素の秩序はその「枝」であることをやめるからである。ところで、音、明暗、色など、神経なしにはあり得ない感覚がその刺激‐反応の幹から解放されるということは、その幹が分解されるということである。このとき、幹であることをやめた神経の秩序と枝であることをやめた神経の秩序が互いにつながり合う。そして、刺激であることをやめた広がりの内包量と外延量が互いに連結関係や切断関係に置かれることによって、何らかの分節体が生み出される。それ故、枝であることをやめた神経の秩序はその分節体と平行する神経の秩序につながることになる。こうして、その分節体の感覚は様々な連結と切断の秩序へと分散してゆく。
ある分節体が生み出されるとき、かつてと同じ神経の秩序につながる場合もあれば、逆にかつてとは異なる神経の秩序につながる場合もある。かつてと同じ神経の秩序につながる場合、それと平行してかつての感覚が精神において繰り返される。こうして、その分節体の感覚は何らかの記憶と結び付けられることになる。例えば、ある音楽が昔の出来事を思い出させるということは、その音の分節体につながる神経の秩序が他の秩序の活動よりも活発になり、かつ、その秩序がかつてその出来事を知覚したときと同じものであり、それ故、その活動が活発になるのと平行して、かつての知覚が精神において繰り返されるということである。この感覚と記憶との結び付きは刺激と反応の結び付きのように幹を形成していない。その分節体の感覚は様々な連結と切断の秩序への分散の過程で、その記憶と結び付くこともあれば結び付かないこともある。一方、神経の秩序に幹が形成されている場合、出発点における感覚‐活動は終着点における感覚‐活動と確実に連結されている。ところで、私たちはそうした刺激‐反応の幹から外れたところで、感覚と記憶の幹が形成されることを知っている。所謂「トラウマ(精神的外傷)」であるが、それは特定の感覚を特定の記憶へと中継する幹が形成されることであり、かつ、その幹の活動が活発になるとき、神経を持つ物体がその活動力を減少させ、それと平行して憂鬱、苦痛、恐れなど、様々な悲しみの情動が感じられるということである。逆に、そうした幹が形成されるとしても、その幹の活動が活発になるとき、神経を持つ物体がその活動力を増大させるのならば、それと平行して爽快、快感、希望など、様々な喜びの情動が感じられることになる。


                       *

私たちは先に、「長さ」「高さ」「強さ」などの音楽的要素によっても、言語に必要な「音節」を揃えることが出来るのをみた。では、その人工的な分節体と所謂「自然言語」の分節体の違いはどこにあるのだろうか。
はっきりしていることは、記憶の分節化の有無である。言語においては、出来事の記憶が「何が」と「どうした」に分節されている。「何が」を成り立たせるのは、私たちに記憶されている感覚のうち、出来事においてどうにかするのはいずれの感覚かという区別と選択である。私たちに記憶されている諸感覚の集合をSとすると、その要素は全部でn(S)個ある。出来事を構成する感覚が、例えば「古池」と「蛙」であるのならば、それらの感覚はそのn(S)個ある感覚のうちの二つである。私たちは先ず、それらの感覚を他のすべての感覚とともに切断関係に置かなければならない:

  ・・・|古池|蛙|・・・

そうすることによって、それらの感覚は互いに、また、私たちの記憶する他のすべての感覚から区別される。私たちはそのように区別されている感覚群の中から、{古池,蛙}という組み合わせを選択するわけである。こうして、その出来事の記憶の連続体から「何が」が分節される。
一方、「どうした」を成り立たせるのは、「何が」を成り立たせている諸感覚が出来事においてどのように連結するのかという区別である。その出来事の「何が」を成り立たせている組み合わせが{古池,蛙}であるのならば、それらの連結の仕方には「古池に蛙が飛び込んだ(m1)」「蛙が古池から出て来た(m2)」「蛙が古池に佇んでいた(m3)」など、様々なものがある。このとき、それらの連結の仕方どうしを切断関係:

に置くことによって、それらを互いに区別することが可能になる。そして、その出来事における連結の仕方が「m1」であるのならば、その連結の仕方をそれ以外の連結の仕方から区別することで、その出来事の記憶の連続体から「どうした」が分節される。
 ここで、私たちの人工的な分節体を使って、次のような思考実験をしてみるのも面白い。即ち、その音楽的要素からなる「音節」を適当に連結させて、いくつかの束を作る。例えば、高音‐強音‐速音の束(n1)、中音‐平音‐常音の束(n2)、低音‐弱音‐遅音の束(n3)という三つの楽音束を作る。そして、楽音束n1が鳴っているときには「古池に蛙が飛び込んだ」という出来事(e1)を想起し、楽音束n2が鳴っているときには「蛙が古池から出て来た」という出来事(e2)を想起し、楽音束n3が鳴っているときには「蛙が古池に佇んでいた」という出来事(e3)を想起する。この聴取と想起の組み合わせを十分に繰り返すことで、

 という連結・切断関係を打ち立てることが出来る。それぞれの楽音束と具体的な記憶の連結(n1‐e1、n2‐e2、n3‐e3)だけであるのならば、それはトラウマの場合と何ら違いはない。しかし、この場合、それらの楽音束どうしはあらかじめ「n1|n2|n3」という切断関係を形成している。このように切断関係におかれた楽音束は、私たちの記憶に対して、言わば「整理棚」のインデックスの役割を果たす。従って、n1の「棚」に入れられるのは出来事e1ばかりではない。もしもそれに類似した別の出来事が記憶されるのならば、それもまたそこに収められる。n2、n3の「棚」に関しても同様である。ところで、それぞれの「棚」に収められる出来事どうしの類似性は所謂「分析的な」ものではない。例えば、n1の「棚」に収められる諸々の出来事は、「古池に蛙が飛び込んだ」という共通の意味を持つわけではない。そうではなくて、それらの出来事に共通するものは、私たちの神経に粗略化された内包量である。つまり、n1の「棚」に納められるのは、e1と同じ内包量を持つ出来事なのだ。従って、楽音束n1と連結されるものはもはや出来事e1の具体的な記憶ではない。それはn1の「棚」そのものである(たとえそこに収められているのが出来事e1でしかないとしても)。
 しかし、この人工的な分節体はいまだ言語ではない。なぜならば、その内容が「何が」と「どうした」に分節されていないからである。なるほど、その記号系は私たちに記憶された出来事を「整理棚」n1,n2,n3,…に分類する。しかし、このとき、それぞれの出来事はひとつの内包量として捉えられているのであり、それらを分類することはそれぞれの出来事を分析することではない。即ち、ある出来事において、いかなる感覚が、どのように連結しているのか、ということが問われているわけではない。
ミミズを食べたヒキガエルは、その直後ミミズとある程度形の似ているマッチ棒に飛び掛るようになる(注14)。これはヒキガエルがその反応を引き起こす刺激となる対象について記憶したということである。しかし、これはまたヒキガエルにとって、ミミズも、マッチ棒も、その神経に粗略化された内包量に違いがないということである。ヒキガエルとミミズの出会い、ヒキガエルとマッチ棒の出会いはそれぞれ別の出来事であり、ヒキガエルの精神における「ミミズ」と「マッチ棒」の感覚は互いに異なる。また、ヒキガエルとミミズが再び出会うとき、一度目の出会いと二度目の出会いはそれぞれ別の出来事であり、ヒキガエルの精神における一方の「ミミズ」と他方の「ミミズ」の感覚は互いに異なる。しかし、ヒキガエルの神経はそれらの違いを一切無視して、それを同じ内包量として感覚する。私たちがインデックスn1,n2,n3,…の下に出来事を分類できるのも、このヒキガエルと同じ能力によってである。勿論、ヒキガエルの方はいかなるインデックスも持っていないし、彼らの記憶した出来事をいちいち分類することもない。そもそもヒキガエルのこの能力は刺激‐反応のループにすっかり組み込まれているのであり、その内包量は私たちのように解放されていない。
ヒキガエルの場合、「ミミズ」の内包量も、「マッチ棒」の内包量も、その出来事の内包量のうちに完全に溶け込んでしまい、それら三つの内包量が区別されることはない。ところで、マッチ棒に飛び掛るヒキガエルであっても、ミミズとまったく形の似ていないコインに飛び掛ることはない。このとき、ヒキガエルは「ミミズ」の内包量と「コイン」の内包量を区別したのではなく、「ミミズ」の内包量の溶け込んでいる出来事の内包量と「コイン」の内包量の溶け込んでいる出来事の内包量を区別したのだ。一方、私たちの場合、ある広がりをその広がりの埋め込まれた出来事の広がりから切断することによって、その切断された広がりに固有の内包量を捉えることが出来る。私たちは様々な出来事の内包量ばかりでなく、それらの出来事において連結している様々な感覚の内包量を解放することが出来るのだ。諸感覚の内包量が解放されることによって、楽音束n1,n2,n3,…それぞれにその内包量を同じくする感覚を集めることが可能になる。例えば、n1の「棚」にはあのミミズと同じ内包量の感覚を集め、n2の「棚」にはあの蛙と同じ内包量の感覚を集め、n3の「棚」にはあの…。この分類作業を十分に繰り返すことで、それぞれの楽音束と諸々の感覚を集める記憶の枠との連結・切断関係が打ち立てられる。しかし、この繰り返しは実験室における「刷り込み」のように行われるわけではない。即ち、この感覚の分類作業は出来事の分析作業と連動して繰り返されなければならない。
私たちはいまだはっきりした音声の分節体を持たず、ただ音声の「長さ」「高さ」「強さ」の若干の違いを認識する能力、自らの連続的な広がりに切断を導入する能力、そして内包量と外延量の連結・切断関係を打ち立てる能力を持つのみである。ここから始めよう。私たちは覚醒時あるいは夢幻状態で自らの体験した出来事を誰かに伝えようとする。この伝達の仕方には様々な表現があり得るが、この場合、それはその出来事において何がどうしたのかを表現することである。私たちは先ず、その出来事の広がりに切断を導入して、それをいくつかの感覚に分析する。そして、それらの感覚それぞれをある「長さ」、ある「高さ」、ある「強さ」の楽音束に連結させる。勿論、それらの楽音束それぞれはそれらの感覚と一時的に連結されているだけであり、いまだ分節体をなしていない。しかし、私たちはそれらの楽音束を線状に連結させることによって、その出来事を表現しようとする。ところで、それらの楽音束が連結している諸感覚は、その出来事の「何が」を構成しているに過ぎない。従って、それらの楽音束を線状に並べるだけでは、その出来事を表現したことにはならない。なぜならば、出来事における諸感覚の連結自体は線状をなしておらず、その連結の仕方には様々なものがあるからである。そこで、私たちはそれらの楽音束の並べ方を変えたり(注15)、それらの楽音束を若干変化させたり(注16)、それらの楽音束に別の楽音を付加したり(注17)、それらの楽音束を別の楽音束と連結したりと、様々な工夫をすることで諸感覚の非線状な連結の仕方の違いに対応させる。そして、私たちはそうした楽音束の線状連結の一つを、その出来事の表現として発声する。なるほど、これを聴取した私たちは、その出来事において何がどうしたのかを殆ど理解できない。なぜならば、その楽音束と感覚の連結も、その楽音束の線状連結の規則も恣意的で、一時的なものに過ぎないからである。しかし、それにも関わらず、私たちはその出来事あるいは別の出来事を誰かに伝えようとすることをやめない。
私たちは再び、その出来事の広がりに切断を導入し、それをいくつかの感覚に分析する。ところで、一時的かつ恣意的であるとは言え、諸感覚の中には何らかの楽音束と既に連結しているものがある。それ故、そうした感覚と同じ内包量を持つものに関しては、その楽音束の「棚」に分類し、一方、既存の「棚」に分類することの出来ないものに関しては、新しく別の楽音束と連結する。勿論、それらの感覚が内包量を同じくするのかしないのかということもまた恣意的なものである。しかし、ここで行われているのは既に感覚を分類することである。それ故、諸感覚を楽音束と連結させて「何が」と「どうした」を分節することは、単にその線状連結をその出来事に対応させているのではなく、私たちの記憶に登録されている「棚」どうしを切断関係に置くことである。そして、その線状連結を諸感覚の非線状な連結の仕方に対応させて「何が‐どうした」を構成することは、その「棚」どうしの連結を互いに切断関係に置くことである。その際、線状連結に施される工夫は、既存のもので賄える場合にはそれを利用し、それで賄えない場合には新しく開発される。なるほど、その発声を聴取しても、私たちは依然として、その出来事において何がどうしたのかを理解できない。なぜならば、その楽音束と記憶の枠の連結も、その楽音束の線状連結の拡張された規則もいまだ恣意的で、一時的なものに過ぎないからである。しかし、それにも関わらず、私たちはやはりその出来事あるいは別の出来事を誰かに伝えようとすることをやめない。これはつまり、私たちの間で、様々な出来事の分析作業とそれらの出来事から切断される諸感覚の分類作業が繰り返されるということである。そして、この二重の作業の繰り返しこそ、私たちの「整理棚」に集められる感覚群の恣意性を徐々に排除し、一方、それらの楽音束がその「整理棚」のインデックスとしての機能を十分に果たせるように、その音声の分節体を整備する。それ故、楽音束と記憶の枠の連結はやがて十分な耐久性を獲得する。こうして、楽音束の分節体、楽音束と記憶の枠の連結、及び、楽音束の線状連結の規則が打ち立てられる。このとき初めて、私たちはその音楽的な要素からなる分節体によって、様々な出来事を表現し合えるようになる。


                       *

「何が」と「どうした」に分節された出来事はもはやその具体的な記憶ではない。先ず、私たちは出来事の記憶から諸感覚s1,s2,s3,…を切断する:







次に、私たちはそれらの感覚を音声の分節体の要素v1,v2,v3…と連結し、記憶の枠σ1,σ2,σ3,…に分類する:



この出来事の分析と感覚の分類が繰り返されることによって、私たちの精神にストックされる記憶の枠の集合Σはその個数を増やしてゆく。次に、私たちはこの集合Σの中から、その出来事において非線状に連結する感覚s1,s2,s3,…それぞれが収められている記憶の枠σ1,σ2,σ3,…を選択する:






この選択された記憶の枠の集合{σ1,σ2,σ3,…}は集合Σの部分集合である。ところで、記憶の枠どうしは、出来事から切断された感覚どうしとは異なり、既に切断関係に置かれている。従って、集合Σから部分集合を選択することは、ただそれだけで、その要素である記憶の枠を他の記憶の枠とともに切断関係に置くことである:





こうして、他の部分集合ではなく、{σ1,σ2,σ3,…}がその出来事の「何が」として分節される。記憶の枠には内包量を同じくする感覚群が集められるだけである。従って、それぞれの記憶の枠は自らに固有の内包量q1,q2,q3,…以外にいかなる内容も持たない。それ故、そうした記憶の枠どうしを切断関係に置くことは、それらの内包量どうしを比較・対照することになる:



 
ところで、それらの記憶の枠を連結させたもの(即ち、σ1‐σ2‐σ3‐…)全体の内包量は出来事の内包量と一致しない。なぜならば、それらの記憶の枠に対応する感覚はその出来事から恣意的に切断されたものに過ぎず、従って、それらだけで出来事がくみ尽くされてしまうことはないからである。「何が」ばかりでなく、それがどうしたのかを捉えなければ、出来事そのものを捉えたことにはならない。それ故、私たちはそのために必要な感覚を出来事から更に切断してこなければならない。そして、その感覚を分類し、場合によっては「整理棚」を新たに増設し、そこから必要な記憶の枠を選択し、既に連結されているそれらに加えなければならない:



 この更なる出来事の分析と感覚の分類もまた、それらが繰り返されることによって、集合Σの個数を増やしてゆく。ところで、そこで連結される記憶の枠が同じものであるとしても、その連結が全体として持つ内包量は必ずしも出来事の内包量と一致しない。なぜならば、その連結全体の内包量はそれらの記憶の枠どうしをどのように連結するのかに応じて異なったものとなるからである。今、連結σ1‐σ2‐σ3‐σ4‐…が全体として持つ可能性のある内包量をq1,q2,q3,…とするのならば、それぞれの内包量に対応する連結の仕方m1,m2,m3,…があることになる:




 出来事の具体的な記憶から「どうした」を分節するためには、それらの異なる連結の仕方を互いに切断関係に置かなければならない:



 このとき、出来事の内包量がq1であるのならば、他の連結の仕方m2,m3,…ではなく、それと内包量を同じくする連結の仕方m1がその出来事の「どうした」として分節される。
出来事の具体的な記憶から「何が」と「どうした」を分節するということは、以上のような仕方で内包量どうしを比較・対照することに他ならない。ところで、記憶の枠は自らに固有の内包量以外のいかなる内容も持たない。従って、「何が」と「どうした」に分節された出来事もまた、そのように比較・対照された内包量どうしの関係以外のいかなる内容も持たない。つまり、その内容は出来事の具体的な記憶でもなく、出来事を構成する諸感覚の記憶でもなく、それぞれの感覚の持つ外延量や内包量でもない。それはこの分節化を通じての、内包量どうしの関係の概念である。即ち、記憶の枠それぞれが持つ内包量qどうしの違い、及び、記憶の枠の連結が全体として持つ内包量qどうしの違い、そうした内包量どうしの違いのすべてがその概念である。私たちが「意味」と呼ぶところのものはそうした概念である。従って、意味は一でもなければ、統一されてもいない。それは内包量どうしのそのような違いであり、それらの内包量すべてからなる多であり、かつ、そうしたものとして私たちの間で繰り返される。
記憶の枠どうしを連結するとき、それぞれの枠は音声の分節体によって既にインデックスされている:



しかし、記憶の枠とは異なり、音声の分節体は線状に広がる存在である。それ故、記憶の枠どうしの連結をそのままで音声の分節体に変換することは出来ない。その変換ためには何らかの規則が必要である。ところで、記憶の枠どうしを連結させるやり方には様々なものがある。従って、その変換規則はそうした違いに対応したものでなければならない。線状連結の規則はこの要請を満たしている。その規則によって、出来事と内包量を同じくする仕方での連結m1が音声の分節体の線状連結に変換される(以下のυ1,υ2,υ3,υ4はv1,v2,v3,v4が線状に連結されたものである):




こうして、その線状連結が「何が」と「どうした」を連結させた意味の表現となる。ところで、私たちはこの「何が‐どうした」を出来事についての「叙述」と呼ぶ。従って、意味は先ず叙述の意味である。叙述の意味はある音声の分節体の線状連結全体に対応している。私たちは線状連結の規則を逆方向に辿ることによって、その全体から特定の部分(例えば、υ1)を切断することが出来る。これと平行して、叙述の意味の全体から、その線状連結の部分と連結する記憶の枠(即ち、σ1)に対応する部分(μ1)が切断される:





同様にして、叙述の意味全体から、線状連結υ2,υ3,υ4,…と連結する記憶の枠σ2,σ3,σ4,…に対応する部分μ2,μ3,μ4,…が切断される。それらの部分こそ、線状連結υ1,υ2,υ3,υ4,…の「語彙」と呼ばれるものである:
 

例えば、私たちが「古池や蛙飛びこむ水の音」(注18)という文を読むとき、「古池」「蛙」「飛びこむ」「水」「音」という語彙がその叙述の意味以前に存在しているわけではない。「古池」という語彙は、私たちが「フルイケヤカワズトビコムミズノオト」という音節束全体から、線状連結の規則を逆に辿り、要素「フルイケ」を切断した後に始めて生じるものである。一方、この切断以前に存在しているのは、その音節束によってインデックスされている記憶の枠、及び、そこに収められるべき感覚に共通する内包量である。このことは「蛙」「飛びこむ」「水」「音」に関しても同様である。
私たちがその線状連結を聴取するとき、それが叙述する出来事の分節化を通して、それらの記憶の枠の内包量が他の記憶の枠の内包量と比較・対照され、かつ、それらの連結全体の内包量どうしが比較・対照される。このとき、「フルイケ」「カワズ」「トビコム」の記憶の枠はその出来事の「何が」を構成し、一方、「ミズノオト」の記憶の枠はその「どうした」を構成する。また、「フルイケ」と「カワズ」はその出来事の部分をなす出来事「古池に蛙が飛び込んだ」の「何が」を構成し、一方、「トビコム」の記憶の枠はその「どうした」を構成する。それ故、先ずは「フルイケ」あるいは「カワズ」の内包量が他の記憶の枠の内包量と比較・対照される。この比較・対照によって、その内包量と他の内包量との違いが思考される。次に、「フルイケ‐カワズ‐トビコム」の連結全体の内包量どうしが比較・対照される。その際、「トビコム」の内包量もまた他の記憶の枠の内包量と比較・対照されることになる。この比較・対照によって、「古池に蛙が飛び込んだ」という出来事の内包量と他の出来事(「古池が蛙に飛び込んだ」「古池から蛙が飛び出した」等)の内包量との違いが思考される。次に、「フルイケ‐カワズ‐トビコム‐ミズノオト」の連結全体の内包量どうしが比較・対照される。その際、「ミズノオト」の内包量もまた他の記憶の枠の内包量と比較・対照されることになる。この比較・対照によって、「古池に蛙が飛び込んで水の音がした」という出来事の内包量と他の出来事(「水の音がして古池に蛙が飛び込んだ」「古池に蛙が飛び込んでも音がしなかった」等)の内包量との違いが思考される。こうした内包量どうしの違いのすべてがその叙述の意味である。
線状連結の規則を順方向に辿ることと逆方向に辿ることは同じ道を行ったり来たりすることではない。私たちはその規則を逆方向に辿ることによって、先ず、その線状連結全体を「フルイケヤカワズトビコム」と「ミズノオト」という二つの部分に分節する。このとき、一方では「ミズノオト」の内包量と他の記憶の枠の内包量との違いが、他方では「フルイケ‐カワズ‐トビコム」の連結における内包量どうしの違い(この違いにはそれらの内包量と他の記憶の枠の内包量との違いばかりでなく、それらの連結全体の内包量どうしの違いも含まれる)が、「フルイケ‐カワズ‐トビコム‐ミズノオト」の連結における内包量どうしの違い(この違いにもまた、それらの内包量と他の記憶の枠の内包量との違い、及び、それらの連結全体の内包量どうしの違いが含まれている)から切断される。この切断によって初めて、「フルイケヤカワズトビコム」に関する内包量どうしの違いがその部分的な出来事を叙述する意味となり、また、「ミズノオト」に関する内包量どうしの違いがその言葉の意味となる。次に、前者においては、その線状連結全体が「フルイケヤカワズ」と「トビコム」という二つの部分に分節される。このとき、一方では「トビコム」の内包量と他の記憶の枠の内包量との違いが、他方では「フルイケ‐カワズ」の連結における内包量どうしの違いが、「フルイケ‐カワズ‐トビコム」の連結における内包量どうしの違いから切断される。この切断によって初めて、「フルイケヤ」「カワズ」「トビコム」それぞれに関する内包量どうしの違いがそれらの語彙となる。また、後者においては、その線状連結全体が「ミズノ」と「オト」の二つの部分に分節される。このとき、一方では「ミズ」の内包量と他の記憶の枠の内包量との違いが、他方では「オト」の内包量と他の記憶の枠の内包量との違いが、「ミズ‐オト」の連結における内包量どうしの違いから切断される。この切断によって初めて、「ミズノ」と「オト」それぞれに関する内包量どうしの違いがそれらの語彙となる。
このように、線状に広がる存在をその表現とし、かつ、意味をその内容とする記号系を私たちは「言語」と呼ぶ。


                       *

もう一度、読んでみよう。

古池や蛙飛びこむ水の音

これはあまりにもよく知られた俳句であり、その線状連結はただ単に「古池に蛙が飛び込んで水の音がした」という出来事を叙述したものではない。この文を発声できる者にとって明らかなことは、それが所謂「五七五」という音節のリズムを持っているということである。それでは、この俳句と「古池に蛙が飛び込んで水の音がした」という文の違いはそのリズムの有無だけなのだろうか。
既に日本語という記号系を持つ私たちにとって、諸音節を実際に線状連結することはその意味体系がもたらす分割線に沿って、私たちの精神と平行する広がりに切断を導入することである。

  古池や

 諸音節をそう線状連結するだけで、私たちの有限な広がりから、その意味と平行する微粒子群の広がりが切断される。その運動や静止が繰り返されることによって、私たちの精神はその意味を理解する。しかし、私たちが感じているのはその意味を成立させる内包量と外延量ばかりではない。私たちはそれらとは異なる内包量と外延量を感じる。それはその微粒子群の相互作用域において、様々な微粒子たちの運動や静止がなされているからである。確かに、それらの内包量と外延量のほとんどはその値がたちまち「=0」になってしまうため、私たちにはどうすることも出来ない。しかし、それらの運動や静止の中に反復するものや繰り返されるものがある場合、私たちはそうした感覚を切断することによって、その値が「=0」にならない内包量と外延量を持つことが出来る。

蛙 飛びこむ

 「蛙」という言葉、「飛びこむ」という言葉のそれぞれが「古池や」という言葉と同じく、私たちの有限な広がりに切断を導入する。そして、その切断によって、私たちはそれぞれの意味を成立させるものとは異なる内包量と外延量を感じる。「蛙」と「飛びこむ」を線状連結することは、それらの中で「=0」以外の値を示す内包量と外延量どうしを連結関係や切断関係に置くことである。つまり、それらの言葉を線状連結させることによって、それらの内包量あるいは外延量がその値を変えるのならば、それはそれらを連結関係に置くことである。しかし、そうすることによって、一方の内包量と外延量の値が「=0」に向かうのならば、それはそれらを切断関係に置くことである。それぞれの言葉の持つそうした内包量と外延量は一つとは限らない。私たちはそれらの言葉を線状連結させることで、それぞれが持つ複数の内包量と外延量を様々な連結関係や切断関係に置き、その内包量あるいは外延量の値を「=0」から「=最大」の間で変化させる。こうして、「蛙」と「飛びこむ」の非意味的な内包量と外延量は、それらの言葉が「蛙飛びこむ」という具合に線状連結されることによって、その値を変化させる。

    水 の 音

 「水」と「音」それぞれの非意味的な内包量と外延量も同様である。即ち、それらの内包量と外延量は、それらの言葉が「水の音」という具合に線状連結されることによって、その値を変化させる。なるほど、日本語の文法規則からすれば、一方は「主部+述部」の関係にあり、主部は「名詞」、述部は「動詞+動詞」である。他方は「修飾語+被修飾語」の関係にあり、修飾語は「名詞+助詞」、被修飾語は「名詞」である。しかし、こうした違いは叙述の意味に関わるものでしかない。非意味的な内包量と外延量の連結関係や切断関係においては、主部であれ述部であれ、修飾語であれ被修飾語であれ、単語であれ句であれ、また、その単語あるいは句の品詞がどのようなものであれ、それらの言葉の線状連結がもたらす変化に応じて、それらの非意味的な感覚と平行する微粒子群どうしの相互作用がどのようなものになるのかが問題である。なぜならば、その相互作用によって、微粒子たちの運動や静止が繰り返されるようになることもあれば、反復するようになることもあるからである。既にみたように、意味的な内包量と外延量の連結・切断関係によって、その感覚の多と平行する微粒子群の運動や静止が繰り返されるようになった。そのとき、私たちの精神はその音韻体系や記憶とともに、それらとは異なる意味体系を思考するようになった。今回、その微粒子群の運動や静止が繰り返されるか反復するとき、私たちの精神はその意味体系や非意味的な感覚の反復あるいは繰り返しとともに、それらとは異なるものを思考するようになる。
「蛙飛びこむ」においても、「水の音」においても、それぞれの節の非意味的な内包量・外延量の連結関係や切断関係だけでは、そうした反復や繰り返しを生起させることが出来ない。また、「古池や」の非意味的な内包量・外延量は、その節だけでは、何らかの連結関係や切断関係をなすべき、他の非意味的な内包量・外延量を持たない。しかし、この句全体の線状連結においては、その非意味的な内包量・外延量が「蛙」その他すべての言葉の非意味的な内包量・外延量と何らかの連結関係や切断関係をなしている。また、そこでは「蛙」の非意味的な内包量・外延量も、「飛びこむ」の非意味的な内包量・外延量ばかりでなく、「古池や」その他すべての言葉の非意味的な内包量・外延量と何らかの連結関係や切断関係をなしている。「飛びこむ」「水」「音」に関しても同様である。それらの連結関係や切断関係は、それらの感覚と平行する微粒子群どうしを互いに相手の相互作用域に置く。そして、その相互作用がそこを占める微粒子たちの運動や静止に反復をもたらすとき、私たちの精神はその微粒子群と平行する感覚に「美しさ」を感じる。ところで、その微粒子群は微粒子以外のいかなる構成要素も持たない。それ故、この句が美しいとするのならば、それはその意味が美しいのでも、そのリズムが美しいのでもない。そうではなくて、それらの構成体とともにある、その最単純な感覚が美しいのだ。




                       *

美的感覚をともなう言葉は一般に「詩」と呼ばれる。詩作とは次の四つの過程を繰り返すことである:
1. ある言葉を選択し、意味体系のもたらす分割線に沿って、私たちの精神と平行する広がりから、その言葉の意味と平行する微粒子群の広がりを切断すること。その切断にともない、その微粒子群の相互作用域における微粒子たちの運動や静止が非意味的な感覚として思考される。
2. 私たちの精神と平行する広がりから、その非意味的な感覚と平行する微粒子群の広がりを切断すること。その切断によって、非意味的な内包量と外延量が与えられる。
3. それらの内包量と外延量を連結関係や切断関係に置くことによって、それらの微粒子群の相互作用域における微粒子たちの運動や静止に反復をもたらすこと。
4. 私たちの精神に既に与えられている内包量と外延量がそうした連結関係や切断関係をなさない場合、別の言葉を新たに選択すること。(1.へ戻る。)
言葉は繰り返されるものであるが、詩は反復するものである。それは個体間でも言えることである。言葉はその音韻の連結・切断関係とともに、その意味の連結・切断関係が個体間で共有されることによって繰り返された。一方、詩が反復するとき、その意味の連結・切断関係は共有されるが、その非意味の連結関係や切断関係が共有されることはない。異なる個体が同じ言葉を切断したとしても、その非意味的な内包量と外延量はそれらの個体ごとに異なる。それはそれぞれの非意味的な感覚と平行する微粒子群の運動や静止が異なるからである。それ故、ある個体が言葉の音声どうしをある仕方で線状連結することによって、それらの非意味的な内包量と外延量が連結関係や切断関係をなすとき、その個体と言語を共有する別の個体が、同じ言葉の音声どうしを同じ仕方で線状連結したとしても、それらの非意味的な内包量と外延量が連結関係や切断関係をなすとは限らない。また、それらが何らかの連結関係や切断関係をなしたとしても、それがもう一方の個体と同じものになるとは限らない。従って、ある音声の線状連結が一方の個体において美的感覚をともなうとしても、それと同じ音声の線状連結が他方の個体において美的感覚をともなうとは限らない。それらの個体が言語を共有する以上、その線状連結の意味はそれらの個体間で異ならない。それにも関わらず、一方の個体にとって詩であるものが、他方の個体にとっては単なる言葉に過ぎないということもあるのだ。
 詩における音声の線状連結はそれを読む者の精神に何らかの非意味的な内包量と外延量を与える。しかし、その内包量と外延量が微粒子たちの運動や静止に反復をもたらす連結関係や切断関係をなすとは限らない。従って、一方の個体にとって詩であるものが他方の個体にとっても詩であるためには、その音声の線状連結が他方の個体の精神に非意味的な内包量と外延量を与え、かつ、その内包量と外延量が微粒子たちの運動や静止に反復をもたらす連結関係や切断関係をなさなければならない。ところで、内包量と外延量の連結関係や切断関係は、その感覚と平行する微粒子群どうしの構成関係をもたらすものである。従って、詩における非意味的な内包量と外延量の連結関係や切断関係が微粒子たちの運動や静止に反復をもたらすということは、その感覚と平行する微粒子群どうしの構成関係がその微粒子たちの運動や静止を反復させるということである。一方、非意味的な内包量と外延量の連結関係や切断関係の中に、微粒子たちの運動や静止に反復をもたらさないものがあるということは、その感覚と平行する微粒子群どうしの構成関係は微粒子たちの運動や静止を反復させるものではないということである。
 微粒子たちの運動や静止を反復させる構成関係とはいかなるものであるのか。その構成関係は、微粒子群どうしがそれをなす限りにおいて(というのは、それをなし得ない微粒子群どうしの組み合わせもあるからであるが)、その相互作用域における微粒子たちの運動や静止(それはいつも同じというわけではない)を反復するものである。今、一方の個体の広がりに微粒子群abc…があり、他方の個体の広がりにそれらとその運動や静止を異にする微粒子群αβγ…があるとする。abc…とαβγ…が同じ構成関係によって構成されるとき、だからと言って、それぞれの相互作用域における微粒子たちの運動や静止が同じものになるわけではない。なるほど、同じ構成要素が同じ構成関係に置かれるのならば、その構成体における相互作用も同じものとなる。しかし、同じ構成要素でも異なる構成関係に置かれるのならば、その構成体における相互作用が同じものになるとは限らない。また、異なる構成要素が同じ構成関係に置かれたとしても、その構成体における相互作用が同じものになるとは限らない。ところで、abc…とαβγ…はその運動と静止を異にする。従って、それらが同じ構成関係によって構成されたとしても、それぞれの相互作用域における微粒子たちの運動や静止が同じものになるとは限らない。しかし、それにも関わらず、その構成関係がなされる限りにおいて、それらの運動や静止のいずれもが反復するのだ。微粒子たちの運動や静止を反復させる構成関係とはそうしたものである。従って、微粒子群どうしがその構成関係をなし得るのならば、その相互作用域における微粒子たちの運動や静止がどのようなものであれ、それらは反復するということである。
 詩の線状連結がなす非意味的な内包量と外延量の連結関係や切断関係は、その詩を創作した個体(詩人)の広がりにそうした構成関係をもたらす。従って、その線状連結がそれを読む個体に何らかの非意味的な内包量と外延量を与えるとき、その感覚と平行する微粒子群どうしが詩人のそれと同じ構成関係をなすのならば、その相互作用域における微粒子たちの運動や静止は反復する。このとき、その個体はその微粒子群と平行する感覚に美しさを感じる。ところで、その個体に与えられた非意味的な内包量と外延量は、その詩人に与えられたそれらとは異なる。従って、その個体の相互作用域における微粒子たちの運動や静止が、その詩人の相互作用域における微粒子たちの運動や静止と同じものになるとは限らない。異なった運動や静止をなす微粒子群と平行する感覚は異なったものになる。それ故、その個体がその言葉の構成体とともに思考する最単純な感覚は、その詩人が同じ言葉の構成体とともに思考する最単純な感覚と必ずしも同じものではない。
 一方、微粒子たちの運動や静止を反復させる構成関係の中には、同じ運動や静止を反復させるものもある。つまり、その構成関係をなす微粒子群の運動や静止の違いにも関わらず、その相互作用域における微粒子たちの運動や静止が同じものになるということである。詩の非意味的な内包量と外延量の連結関係や切断関係がそうした構成関係をもたらすものであるとき、それを読む個体の広がりにおいてその構成関係がなされるのならば、その個体の相互作用域における微粒子たちの運動や静止は、その詩人の相互作用域における微粒子たちの運動や静止と同じものになる。このとき、その個体が思考する美的感覚は、その詩人が思考する美的感覚と同じものになる。
 詩人とその詩を読む個体との間で、その最単純な感覚が同じものになろうと、異なったものになろうと、美的感覚が反復していることに変わりはない。一方、その個体が自らの広がりに切断を導入せず、それ故、その詩の線状連結がいかなる非意味的な内包量・外延量も与えない場合、または、その個体が自らの広がりに切断を導入し、それ故、その詩の線状連結が何らかの非意味的な内包量・外延量を与えるのだが、その感覚と平行する微粒子群どうしが詩人のそれと同じ構成関係をなさない場合、その個体の相互作用域における微粒子たちの運動や静止が反復することはない。このとき、その個体は美的感覚を欠いた単なる言葉を思考するだけである。

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私たちは様々な記号系の中で思考している。それぞれの記号系が固有の内包量と外延量の連結関係や切断関係を持っている。それらの記号のいずれかを使用するとき、私たちはその記号を成立させる連結関係や切断関係をなすために、その内包量と外延量を与える切断を、私たちの世界に導入するように仕向けられる。しかし、一度その記号が成立すると、私たちはその記号系に仕向けられているわけでもいないのに、その記号が繰り返す感覚の多を私たちの世界から切断する。するとたちまち、私たちはそれらの感覚とは異なる様々な感覚を思考し始める。なぜならば、その記号が繰り返す感覚と平行する微粒子群のそれぞれが、他の感覚と平行する微粒子群との相互作用域を持っているからである。そうした非記号的な感覚たちの中に、反復したり繰り返されたりするものがある場合、私たちは更に、その感覚を私たちの世界から切断する。そして、私たちはその切断によって与えられた内包量と外延量を、記号系におけるものとは異なる、様々な連結関係や切断関係に置いてみるのだ。そうすることによって、私たちは自らの世界に、それらの感覚と平行する微粒子群からなる、ある構成体を作り出そうとする。その構成体はそれらの微粒子群の相互作用域における微粒子たちの運動や静止を反復させるものである。
微粒子たちの運動や静止を反復させる構成体には二つのタイプがある。一つは、異なる微粒子群の組み合わせから、同じ運動や静止の反復をもたらす構成体であり、もう一つは、異なる微粒子群の組み合わせから、異なる運動や静止の反復をもたらす構成体である。前者(異から同)の場合、その構成体は不特定の微粒子群どうしを組み合わせることによって、特定の運動や静止の反復をもたらす。それ故、私たちが何らかの微粒子群から、その構成体を作り出すことが出来るのならば、その都度、同じ運動や静止がもたらされることになる。一方、後者(異から異)の場合、その構成体は不特定の微粒子群どうしを組み合わせることによって、不特定の運動や静止の反復をもたらす。それ故、私たちが何らかの微粒子群から、その構成体を作り出すことが出来るのならば、その都度、異なる運動や静止がもたらされることになる。
これらの構成体は言わば、定義域の定まっていない関数のようなものである。通常の関数は「実数全体」とか、「-5以上、3以下の自然数」とか、「半径r以下の複素数」とか、その定義域が予め定まっている。このとき、その関数の表現する関係はその定義域の指示する対象間で成立するが、それ以外の対象間では成立するかどうかは分からない。一方、これらの構成関係は、それがどのような対象間で成立するのか予め定まっているわけではない。私たちは様々な微粒子群を実際に組み合わせることによって、それらがその構成関係をなすことが出来るのかどうか試してみるしかないのだ。そして、それらの相互作用域の運動や静止が実際に反復したとき、初めて、私たちはそれらがその構成関係の対象であることを知る。しかし、それらがその対象であることを知ったからと言って、それらの微粒子群が次の機会にもまたその対象になってくれるとは限らない。なぜならば、その対象となる微粒子群と平行する感覚は非記号的なものであり、私たちにはその運動や静止を積極的に繰り返すことが出来ないからである。
また、異から同の構成体は言わば、定義域は定まっていないが値域の定まっている関数のようなものであり、一方、異から異の構成体は言わば、定義域ばかりでなく値域もまた定まってない関数のようなものである。通常の関数は定義域内のいずれかの対象が与えられると、それに対応するべく定められた対象が与えられる。その対象の範囲がその関数の値域である。異から同の構成体の場合、非記号的な感覚と平行する微粒子群が実際にその構成関係をなすことが出来るのならば、その構成体において反復する運動や静止は予め定められている。一方、異から異の構成体の場合、非記号的な感覚と平行する微粒子群が実際にその構成関係をなすことが出来たとしても、その構成体において反復するのは予定された運動や静止ではない。その運動や静止が実際に反復したとき、初めて、私たちはそれがその構成体によってもたらされる対象であることを知る。しかし、それがその対象であることを知ったからと言って、その運動や静止が次の機会もまたその対象になってくれるとは限らない。なぜならば、その構成体は反復する運動や静止をもたらすものなのであって、その運動や静止がどのようなものであるかを定めるものではないからである。
何らかの非記号的な感覚と平行する微粒子群どうしから、異から同の構成体を作り出すことが出来るのならば、私たちはその都度同じ感覚を思考することになる。一方、異から異の構成体を作り出すことが出来るのならば、私たちはその都度異なる感覚を思考することになる。いずれにせよ、その構成体は非記号的な感覚の内包量と外延量どうしを何らかの連結関係や切断関係に置くことを通じて作り出される。そうした構成体によって、その相互作用域における微粒子たちの運動や静止が反復するとき、私たちはその微粒子群と平行する最単純な感覚に「美しさ」を感じるのだ。

2010.6.22

注1.   この偏差は次の二点で「自然主義」のクリーナーメンと異なる。①クリーナーメンが空虚とアトムを前提しているのに対して、この偏差は実体と微粒子を前提している。ところで、実体には空虚はなく、微粒子は分割不可能なもの(ἄτομος,ἄτομον)ではない(勿論、だからと言って、分割可能なわけではない)。そもそも実体の無限様態は分割不可能であり、微粒子はその実体の極限様態である。分割可能なのは有限様態であり、従って、アトムはその有限様態を分割した果てに見出されるものである。②クリーナーメンは空虚中でのアトムの等速落下運動に対して言われることである。その運動の速さと方向は一定のものである。一方、この偏差は第一特徴の運動や静止に対して言われることである。その運動は様々な方向に様々な速さでなされる。また、等速落下運動がアトムと空虚との相関関係であるのに対して、第一特徴の運動と静止は微粒子と実体の無限様態との相関関係ではない。それは微粒子どうしの相関関係である。個々の微粒子の運動がどのような速さと方向でなされようとも、それらが互いに遠ざかるか近づくだけならば、それは第一特徴の運動であり、それらが互いに遠ざかることも近づくこともなければ、それは静止である。ところで、この偏差は次の点でクリーナーメンと一致する。クリーナーメンは「最小限の連続的な時間よりもさらに短い時間のなかで行われる」綜合である。物理学の表現に置き換えるのならば、アトムの「最小限の連続的な時間における単一の方向」は運動する質点が瞬間ごとにとる速度ベクトルの方向であり、アトムの「運動の速さ」はそのベクトルの大きさである。質点の運動が一方のベクトルから他方のベクトルへと連続的に変化するとき、その質点は一方のベクトルを持った瞬間、既に他方のベクトルに向けて何らかの力を受けている。もしもそうでないのならば、次の瞬間にその質点が一方から他方へとベクトルを変化させることもない。従って、その力がその質点に作用を及ぼす時間は、その質点が各ベクトルを持つ瞬間よりも「さらに短い」ことになる。アトムの速さと方向を規定するのは力の作用ではなく、そのアトムの運動と他のアトムからの「衝撃」との綜合である。一方、微粒子の速さと方向を規定するのは、その微粒子が他の微粒子たちのいなくなった場を占めることである。しかし、質点であれ、アトムであれ、微粒子であれ、その運動の変化が「最小限の連続的な時間よりもさらに短い時間のなかで行われる」という時間論に関しては違いがない。(Gilles Deleuze,Lecrece et le simulacre,dans les Etudes philosophiques,No.3,1961.ジル・ドゥルーズ『原子と分身 ルクレティウス/トゥルニエ』原田佳彦他訳、哲学書房、1986年。Ⅱ ルクレティウスと模像、77-88頁参照。)
注2.   Andre Leroi-GourhanLe Geste et la Parole2voltechnique et langage1964la memoire et les rythmes1965),Albin michelparis.アンドレ・ルロワ=グーラン『身振りと言葉』荒木亨訳、新潮社、1973年。第一部 技術と言葉の世界、第三章 原人と旧人、100-102頁参照。また、「一般に、最初の道具製作者はホモ・ハビリスやホモ・ルドルフェンシスといった初期ホモ属だったと考えられている。しかし、A.ガルヒのようなアウストラロピテクス類や、オルドヴァイ渓谷やクービ・フォラなどの遺跡で発見される最古のホモ属人類と共存していた南アフリカの頑丈型アウストラロピテクスも石器使用者あるいは石器製作者だった可能性がある。」(Chris Stringer and Peter Andrews,The Complete World of Human Evolution,Thames Hudson Ltd,London,2005.クリス・ストリンガー、ピーター・アンドリュース『ビジュアル版人類進化大全-進化の実像と発掘・分析のすべて-』馬場悠男他訳、悠書館、2008年。第Ⅲ部 化石証拠の解釈、道具とヒトの行動:最古の証拠、208頁参照。)私たちの以下の議論は切断、内包量と外延量、そして、反復と繰り返しの問題を具体的にイメージするために展開されている。従って、それぞれの石器製作者が誰だったのかはここでは重要でない。
注3.   ルロワ=グーラン、103-105頁参照。また、握斧に関しては「この石器はホモ・エルガステルかホモ・エレクトスによって最初に作られたと考えられているが、後にはボックスグローブ人骨などのホモ・ハイデルベルゲンシスによっても作られた。」(ストリンガー、208頁参照。)
注4.   ルロワ=グーラン、107-110頁参照。
注5.   ところで、これらの記号内容は言葉の意味ではない。意味は言語という記号系に固有の記号内容であるのに対して、これらの記号内容はその内包量と外延量のシークエンスに固有のものである。
注6.   技術の模倣や磨き上げにはより効率的な方法というものがあり、これが同じ技術をめぐる個体群間に技能の差をもたらす。即ち、より効率的な方法を持つ個体群の方がそうでない個体群よりも高い技能集団となるわけである。それに対して、美的創造にはそうした方法というものがない。なぜならば、反復をより効率的に生ぜしめることなど不可能だからである。反復は生じるときには生じるが、生じないときには生じない、ただそれだけである。しかし、だからと言って、まったくの偶然に委ねられているわけでもない。美的創造にもその学び方というものがあるのだ。美しさを感じるためにはその感覚を自らの精神において反復しなければならない。いつか誰かがその解放された諸情動を組み合わせることによって、そうした反復を自らの精神において生ぜしめる。しかし、身振りの場合とは異なり、ひとはその感覚を自らの精神において反復することなしに、その美的概念を繰り返すことが出来ない。即ち、他者の創造した対象に美しさを感じるためには、その他者の精神において生じた反復を自らの精神において繰り返さなければならない。それはその対象を通して、自らの精神に諸感覚の繰り返しからの偏差を生じさせることであり、更に、その偏差の巻き込まれた反復を生じさせることである。美的対象を創造するためには、各個体がこうした反復の経験を積むこと以外に術はない。
注7.   フランス語の口腔母音は、「口の開き」に「狭」から「広」まで4段階の切断関係があり、「唇の形」に「平唇」と「円唇」の切断関係があり、「舌の位置」に「前舌」と「後舌」の切断関係がある。そして、「口の開き」と「唇の形」と「舌の位置」が連結関係にある。(田村毅他編『ロワイヤル仏和中辞典』旺文社、1984年、1985年。付録、発音と綴り字、2002頁参照。)
注8.   フランス語の子音は、「調音法」に「閉鎖音」「摩擦音」「鼻音」「流音」の切断関係があり、「調音器官」に「唇[+歯]」「歯裏+舌」「口蓋+舌」の切断関係があり、声音に「無声」と「有声」の切断関係がある。そして、「調音法」と「調音器官」と声音が連結関係をなしている。(同、2004頁参照。)また、ドイツ語の子音は「Explosiva破裂音」「Frikativa摩擦音」「Nasal鼻音」「Vibrant弾き音」「Lateral側音」「Affrikat破擦音」の切断関係があり、「Bilabial両唇音」「Labiodental唇歯音」「Dentalalveolar歯茎音」「Palatal硬口蓋音」「Velar軟口蓋音」「Uvular口蓋垂音」「Glottal声門音」の切断関係があり、「Stimmhaft有声」と「Stimmlos無声」の切断関係がある。そして、それらが(E|F|N|V|L|A)‐(B|L|D|P|V|U|G)‐Sという連結関係をなしている。(ロベルト・シンチンゲル他編『現代独和辞典』三修社、1984年。付録、文法、2-2子音,1267-8頁参照。)また、サンスクリット語の子音は「軟口蓋音」「硬口蓋音」「反舌音」「歯音」「唇音」の切断関係があり、「閉鎖音」と「鼻音」の切断関係があり、「無気」と「帯気」の切断関係があり、「無声」と「有声」の切断関係がある。そして、それらと「歯擦音」が連結関係をなしている:(軟|硬|反|歯|唇)‐歯擦音‐(閉|鼻)‐(無気|帯気)‐声音。(J.ゴンダ『サンスクリット初等文法』鎧淳訳、春秋社、1974年、1984年。音論、§1子音、9頁参照。)
注9.   ただし、「シ」(shi)は歯舌音ではなく口蓋舌音であり、「チ」(chi)と「ツ」(tzu)は「破裂音‐歯舌音」ではなく「摩擦音‐口蓋舌音」であり、ハ行子音は全体に「シ」よりも喉に近い口蓋舌音である。
注10.    「俺は母音の色を発明した。―Aは黒、Eは白、Iは赤、Oは青、Uは緑。」(J.N.A.Rimbaud,UNE SAISON EN ENFER,1873.ランボオ『地獄の季節』小林秀雄訳、岩波書店、1938年、1984年。錯乱Ⅱ、言葉の錬金術、30頁参照。)
注11.    例えば、意味体系は音韻体系における偏差を緩和する機構として機能する。私たちは後に、意味の発生について考察する。
注12.    ラヴィ・シャンカルの語る「ラーガ」と「ターラ」は、解放されたピッチとリズムがどのように連結・切断関係に置かれるのかを教えてくれる。「ラーガとは伝統によって構築され、すぐれた音楽家の精神の中で生まれ、ひらめいた旋律的な枠のことなのである。(中略)どのラーガも、ある音階に属さねばならない。すなわち、当該の音階パターンの中にある特定の音だけが、ある与えられたラーガに用いられるということなのである。おのおののラーガは、基本音階と呼ばれている音階の一つから引き出される。(中略)カルナータカの理論が広く行われている南インドには、メーラとかメーラカルタ(「旋律を支配するもの」)とよばれる72の基本音階があるが、これらは7つの基本的な音、スワラの組み合わせによって作り出される。(中略)音階は、理論上4音から成る2つのグループ―上および下のテトラコルド―に分かれる。下のグループ(サ・リ・ガ・マ)はプールバーンガあるいは『第1の部分』と呼ばれ、上のグループ(パ・ダ・ニと上のサから成る)はウッタラーンガまたは『上の部分』とよばれる。(中略)ラーガはたいてい2つのテトラコルドのどちらかに重きを置いているものであり、これがある程度までラーガの表現や雰囲気を決めている。どのラーガも、ちょうど西洋音階が下の主音から1オクターブ上の主音へと上がり、また下がってくるのと同様に、はっきりとした上行、下行構成をもっている。上行形はアーローハナといわれ、下行形はアバローハナといわれる。(中略)ラーガは3つのジャーティ(階級)に分類される(中略)。すなわち、音階の7音全部を用いるサンプルナ(7音階)、6音を用いるシャーダバ、5音階のアウダバの3種である。そしてさらにラーガは、この3種のジャーティから選ばれた6種のさまざまな『混合した』カテゴリーに細分類される。たとえば上行音列にサンプルナを用い、下行音列にアウダバを用いるラーガや、上行にシャーダバ、下行にサンプルナを用いるラーガなどがある。(中略)上行、下行の組み合わせに用いられる音の数による分類のほかに、個々の音も低められたり高められたりするという区別がある。たとえば、下行のときには1つないし2つの音がフラットになり、上行ではそれぞれがナチュラルのままである。あるいはその逆の用法などは別に珍しいことではない。『ホームベース』のような役割をしているサ(主音)を別にしても、各ラーガにはバーティ(『響く音』)といわれる支配的な音が一つある。(中略)音階中の2つのテトラコルドが互いに反映し合い、また相応し合っていることはすでに述べた。したがってラーガにはバーティに相応する、バーティの次に重要な音(サムバーティとよばれている)があり、これはもう1つのテトラコルドに含まれている。サムバーティはたいてい、バーティから4度か5度離れているのだが、それは協音の表現を強める。当該のラーガに含まれる音のうちバーティとサムバーティ以外の音はアヌバーティ(類音)とよばれる。与えられた音階の外にあるすべての音はビバーディ(『敵』あるいは不協音)とよばれ、それらの音が属していないラーガでは、演奏されることはない。しかしごくまれには、ビバーディが不協音としての特別な効果のためにラーガに用いられることがある。」(Ravi ShankarMy MusicMy LifeSimon and Schuster Rockefeller Center1968.ラヴィ・シャンカル『わが人生わが音楽』小泉文夫訳、音楽之友社、1972年。Ⅰ 遺産、ラーガを構成する要素、26-30頁参照。)「ちょうどラーガがインド音楽の旋律の基本的要素であるように、ターラは時間やリズムに関する本質的な要素なのである。(中略)リズムという言葉をもっと広い意味にとれば話は別だが、ターラは種々のマートラ(リズムの単位)から成る有機的なリズム周期を示している。インド音楽は極度に複雑なリズムの体系を発展させてきた。1つのリズム周期は3から108―あるいはそれ以上の―の拍から作られるが、音楽家が非常によく用いるのは、1520のターラに過ぎない。インド音楽をたいへん深く理解するような、選りすぐれた聴衆のためには、ときにはさらに30とか40のターラが演奏される。個々のターラに含まれている拍には、さまざまな重要度がある。もっとも大きく強調される拍は、サムである。その他の重要な拍はターリーとよばれ、アクセントを持たない拍(空拍)はハーリーと呼ばれる。インドの音楽で時間を正しく保つために、われわれは手を打ち鳴らして拍を示す。サムとターリーのときには手を叩き、ハーリーのときには手を差し出す。その他の拍のときには重要な拍と拍との間の拍数によって、指を小指、薬指、中指などというふうに折り曲げて数える。」(同上、ターラ―手をうち鳴らす、39-43頁参照。)
注13.    石桁真礼生他『楽典 理論と実習』音楽之友社、昭和40年、昭和50年。第5章 音階、Ⅱ その他の音階、1 教会旋法、131-133頁参照。
注14.    Jakob von Uexkuell/Georg KriszatStreifzuege durch die Umwelten von Tieren und Menschen1934Jvon UexkuellBedeutungslehre1940SFischer Verlag GmbHFrankfurt am Main1970.ヤーコプ・フォン・ユクスキュル/ゲオルク・クリサート『生物から見た世界』日高敏隆・野田保之訳、思索社、1973年。第一部 動物と人間の環境世界への散歩、第十一章 探索像と探索のトーン、112-114頁参照。
注15.    例えば、「蛙が蝉に飛び掛かる」という出来事に関して、日本語から次のような人工言語の線状連結の規則を構想するのも面白い。「カワズ‐トビカカル‐セミ」という音節束と「セミ‐トビカカル‐カワズ」という音節束は互いに切断関係にある。このとき、「トビカカル」という音節束よりも前に来る音節束は相手に飛び掛る側を指示し、それよりも後に来る音節束は相手に飛び掛られる側を指示するとあらかじめ決めておくのだ。そうすることによって、それらの切断関係を「蛙が蝉に飛び掛る」と「蝉が蛙に飛び掛る」の区別に割り当てることが可能になる。
注16.    同じく、次のような「曲用」や「活用」の規則を持つ人工言語も構想可能である。「蛙」と「蝉」の記憶にそれぞれ「カワズ」と「セミ」という音節束を連結するばかりでなく、それらの音節束を「主格」(即ち、相手に飛び掛る側を指示するもの)とする。そして、「与格」(即ち、相手に飛び掛られる側を指示するもの)としては、それぞれの記憶に「カワゾ」と「セモ」という音節束を連結する。このように決めておけば、「カワズ‐セモ‐トビカカル」という音節束と「セミ‐カワゾ‐トビカカル」という音節束の切断関係を、「蛙が蝉に飛び掛る」という感覚群の連結の仕方と「蝉が蛙に飛び掛る」という感覚群の連結の仕方の区別に割り当てることが可能になる。また、一方が他方に「飛び掛る」という出来事が未だ完了していない現在のことなのか(現在形)、既に完了した過去のことなのか(完了形)を区別するためには、前者には「トビカカル」という音節束を連結し、後者には「トビカカッタ」という音節束を連結する。このとき、両者に共通する「トビカカ」という音節束には「飛び掛る」という記憶が連結していない。それはちょうど「カワズ」という音節束が主格に連結し、「カワゾ」という音節束が与格に連結するという取り決めのもとで、両者に共通する「カワ」という音節束が「蛙」の記憶に連結していないのと同様である。勿論、日本語の「名詞」と呼ばれるものには「曲用」がない。また、日本語の「動詞」と呼ばれるものの「活用」は「現在形」や「完了形」などの時制によるものではなく、その語が他の語と接続するのかしないのか、接続するのならばどのような語と接続するのかによって形を変える。例えば、「トビカカル」が他の語と接続しない「終止形」とされるのに対して、「トビカカッタ」は「連用形+助動詞」とされる。こうした取り決めのもとでは、その音節束の変化は「トビカカル」と「トビカカッ」(連用形の促音便)の間にある。
注17.    同じく、実際の日本語は次のような線状連結の規則を採用している。即ち、「蛙が蝉に飛び掛る」という感覚群どうしの連結の仕方をそれ以外の連結の仕方から区別するためには、「蛙‐蝉‐飛び掛る」という連結を「蛙‐蝉‐佇む」の連結から区別するだけでは足りない。それらの区別はその記憶の連続体から「何が」を分節するだけだからである。事実、この区別だけでは「蛙が蝉に飛び掛る」のか、「蝉が蛙に飛び掛る」のかを区別することは出来ない。そこで、「ガ」を付加された音節束(「カワズガ」あるいは「セミガ」)は相手に飛び掛る側を指示し、「ニ」を付加された音節束(「セミニ」あるいは「カワズニ」)は相手に飛び掛られる側を指示するとあらかじめ決めておくのだ。このとき、「カワズ‐ガ‐セミ‐ニ‐トビカカル」という音節束と「セミ‐ガ‐カワズ‐ニ‐トビカカル」という音節束は互いに切断関係にある。それ故、そのように音節の付加の仕方を決めておくのならば、それらの音節束の切断関係をそれらの感覚どうしの連結の仕方の区別に割り当てることが可能になる。
注18.  松尾芭蕉『春の日』1686年。