自己言及の不可能性、あるいは、愛の可能性について
ある王様は、自分の国民が嘘ばかりついていると、ナス ルッディーンにこぼしました。そこでナスルッディーンは、言い ます。『真実は様々です。人々は、相対的な真実を使いこなせる前に、本物の真実を知らねばなりません。人々は、いつもあべこべのことをしようとします。人 々は、真実というものはでっち上げに過ぎない、と本能的に知っているので、自分勝手に人工的に真実を作り変えてしまうのです。』
王様は、ナスルッディーンの言うことは難解すぎる、と考えました。
『物事は、本当か嘘かのどちらかでなければならない。私は、無理矢理にでも人々に真実を語らせよう。そうすれば彼らも嘘をつかない習慣が身につくだろ う。』
翌朝には町に入る門の正面に絞首台が設けられ、近衛隊長は、次のように告げました。
『町に入ろうとする者は、私の質問に答えねばならない。』
ナスルッディーンは、最初に一歩前に出ました。
『お前は、何処に行くつもりか。本当のことを言え。さもなければ絞首刑だぞ。』
『私は、その絞首台で首をくくられに行くところです。』
『そんなこと信じられるか。』
『よろしい。では私が嘘をついているならば、私を絞首刑にしてください。』
『そんなことをしたら、お前の言っていることが、真実になってしまうではないか』
『あなたの言う真実とは、この通りなのです。』
これは、自己言及の不可能性をテーマにしたジョークである。これは、日常の判断の様々な局面で、多かれ少なかれ直面するパラドックスではないだろうか。こ のテーマは、古くは、ラテン・アヴェロエス主義の「私は信仰が真であると信じ、真でないと知解する」という信条や卑近な例では、ブッシュのキリスト教原理 主義の信仰のあり方とも関係している問題であろう。ところでいったいナスルッディーンのいう真実とは、どんなものなのであろうか。このジョークをどう解い たらいいのだろうか。そこでこれと同種の「クレタ人はみな嘘つきだ」という有名なジョークを手がかりに考えてみる。以下の論考は、藤田博史氏、新宮一成氏 といった日本のラカンの研究者(ラカン自身の思想は難し過ぎて、こうした研究者の助けがなくては歯が立たなかった)の仕事からぼくが理解しえた限りことを 参考にして愚考したものである。
さてもしクレタ人以外のものが、「クレタ人はみな嘘つきだ」といったならば、この一文はある意味を伝えているだけで、問題はない。ところがクレタ人が、 「クレタ人はみな嘘つきだ」というとなると、途端にパラドックスに陥ってしまう。ここで「クレタ人はみな嘘つきだ」という一文を言表と呼ぶことにする。
さてこの一文を発語することを言表行為と呼ぶと、発された言表を、その言葉を発した言表主体にフィードバックして、言表の意味を吟味すると、その言表その ものが、言表行為者の自己撞着を明らかにしてしまう。クレタ人がみな嘘つきならば、そういうクレタ人は、嘘つきなのだから、嘘つきではないことになってし まう。言語は、発語者を疎外していることが、明らかになるが、そこには意味の意味、意味の差異化という新たな意味生成の次元が開けてくる。
ところでこうした疎外が起こる原因を、ラカンは、言語の他者性に求めている。
フロイトは、各臓器の余剰エネルギーを部分性欲と呼び(各臓器に、欲望の源泉を見た錬金術師たちのように)幼児が、身体のバランスを取ることができないの は、部分性欲がいまだ方向性を持ちえていないため、と説明しているが、ラカンは、生後6〜18ヶ月頃の幼児が鏡に映った自分の像に特別の関心を寄せる時期 を、鏡像段階と呼び、自分自身のイメージを先取りして、ばらばらだった部分性欲がナルシシズムへと統一され、自我(仏教でいう小我であると思う)という幻 想の萌芽が生まれる時期としている。このナルシスとしての自己は、自己承認と他者廃棄が交錯する非常に不安定な時期で、これを想像界と呼んでいる。このと き主体は、言い換えれば、リアルは、ナルシス的自我幻想によって既に遠く自己から隔離されてしまう。鏡の中で自己と他者が絶えず入れ替わり、他者殺害と自 己承認が交錯する不安で情念的なこの閉鎖系は、父の名である原抑圧、つまり言語という抑圧によって、情念的な閉鎖系から開放され、言語という秩序に参入す る。これをラカンは、象徴界と呼んでいる。ハイデッガーは、言葉は存在の住処であるといったが、言語は、いわば不安な自我の覆いとしての働きをしている。 しかしこのとき以降、ぼくたちは決してリアル=現実界(カントの言う物自体)に触れることはできなくなり、主体は疎外され、象徴秩序の中での通常ぼくたち がいう主体は、真の主体の再現代理となり、主体は、言語=記号行為を背後から突き動かす欲望として永久運動の言動力となる。
こうしてラカンは、言語を大文字の他者、絶対他者と呼ぶ。なるほど言語は、ぼくの生まれる前から、先立って存在してわけだから、言語の絶対他者性は疑い得 ない。自我は、欲望に突き動かされながら、言語=記号を永久に再生産することになる。
さて自己言及の不可能性に話を戻すと、ここでは自我の虚構性あるいは幻想性が露わになると同時に、自我が虚構であるということを知ることによって、新たな 意味の次元が開けてくる。想像界が、情念の閉鎖回路であるならば、象徴界は、意識の閉鎖回路であると言えないだろうか。ラカンは、人格とはパラノイアであ る、と言っている。
ところで言語というものは、その本質からして社会的なものであるため、自己言及の問題は、単に個体内部の精神分析の対象であるにとどまらず、貨幣という欲 望の欲望(将来生じるかも知れない欲望を担保する欲望)に突き動かされている資本主義社会のシステムの問題ともなりえる。ニコラス・ルーマンは、『社会諸 システムは、有意味的コミュニケーションに基づく自己言及的システムである』と定義し、この自己言及の問題を、マトゥラーナのオートポイエーシス(自己反 復と差異化)という生物学的概念に置き換え、システム論を展開している。閉鎖回路である各システムが自己言及的に差異化し、文化・逸脱し、閉じられた各シ ステムが、連結することによって開放性を得るとするそのシステム論は、資本主義を絶えざる脱コード化とみるドゥルーズ=ガタリと一脈通ずるところがある が、たとえば、政治システムは、逸脱・分化して複雑性を獲得すると同時に、その複雑性ゆえにアイデンティティー喪失を防ぐ保障作用として、国家という自己 単純化装置を生む、というとき、ルーマンは、複雑性と過剰性が生み出すシステムの亡霊的性格を看破しえていない。換言すれば、ルーマンは、循環的・自己言 及的な自我をあまりに社会学的に捕らえているため、情報処理的な二分法(正邪、善悪の判断等々)に基礎を置く各システムの自己反復と再生産を促している自 我のパラノイア性、そして自我にパラドクシカルに働きかけ、そうした再生産を背後から突き動かしている欲望の方向性について、あまりに楽観的過ぎるように 思われる。
具体的に言えば、この後期資本主義の只中での、アメリカに見るような原理主義的な国家観の台頭を予測しえていない。私見では、原理主義の問題とは、独我論 に浸潤された二分法的な自我のインフレーションに他ならない。自己言及的な反省作用の腐食の結果生じた、欲望の野放図な氾濫といえまいか。そうでもなけれ ば、アメリカにおいても日本においても、臆面もない美辞麗句と途方もない残虐さが平然と同居し、それを正当化する言説が、まかり通るのを、どう説明できる のか。まさにナスルッディーンではないが、『人々は、真実というものはでっち上げに過ぎない、と本能的に知っているので、自分勝手に人工的に真実を作り変 えてしまうのです』。また自我心理学の牙城であるアメリカで、原理主義が台頭するのも、故なきことではない。この戦争が、石油利権のために起こされたこと は、多くの論者が指摘するところだが、またその指摘が間違っているとは思わないが、もし石油がほしいのであれば、この戦争は、あまりに稚拙にして非合理な やり方である。この戦争を宗教の皮を被った経済戦争という言い方があるが、それでは半面しか当たっていない。この戦争には、経済の皮を被った宗教戦争への 衝動が働いている、と見なければ片手落ちであろう。というのもこの戦争、どうみても経済という現実原則を逸脱していると見えるからである。そしてここでい う宗教とは、深層的には二分法的な自我のニヒリズムと同義語だ。ブッシュは、あるインタビューの「あなたのした行為を、歴史が誤ったものを判断したら、ど うしますか」という質問に「そのときは、俺はもういないから、知ったことか」と応えたという。この戦争を内側から見るならば、むしろ欲望に突き動かされた 肥大化した自我幻想が、ラカンのいう想像界まで退行した姿、あるいは対象aを求める欲望の運動の中で、シニフィアンの連鎖としての知が、殺人欲という享楽 にまで高進した姿と見えはしまいか。米軍が「恐れと衝撃」と名づけたあの軍事作戦ほど、こうした米政府中枢のナルシスティックな幼児性を示しているものは ないし、またアブグレイブでの拷問ほど、ぼくたちが生きている資本主義の欲望のあり方を如実に示しているものはない。
ルーマンならば、社会システムの進化と呼ぶところだろうが、環境世界のバーチャル化、言い換えれば、内部と外部が絶えず入れ替わる環界のマトリックス(母 胎)化が、こうした想像界への退落に拍車をかけ、また自由競争という名のもとに、日々新たな欲望の創出を強いられている産業社会が、こうした欲望の高進を 促しているように思われる。この問題は、誰か黒幕がいてこの戦争を仕掛けていると見る陰謀史観と関係がありそうだ。ぼくもディック・チェイニーなり、ラム ズフェルトといった戦争利権に動く軍産複合体の幹部やウォルフォウィッツといったネオコン連中やその背後にいて戦争遂行に勤しんでいる金融ファシストたち の存在が、様々な陰謀を張り巡らしている、という見方に異論がある訳ではない。では彼らが、戦争主体なのであろうか。そうならば、事柄はかえって分かり易 い。彼らを倒せば、いいことになる。でも彼らとは誰なのであろうか。彼らは主体なのか。ぼくにはそうは思えない。彼らとは、まさに抹消された主体の具現化 された姿に見える。
抹消された主体の欲望が、システムの欲望と一体化した姿が、彼らなのだ。欲望そのものが、象徴界と一体と化し、戦争マシーンと成り果てている。
ラカンの精神分析は、資本主義的欲望の行方をよく言い当てていると思う。でも本当ところぼくは、ラカンという人が好きではない。ラカンの晦渋な思想をよく 理解もせず生意気なことを言うな、と言われるかもしれないが、「すべて生物の目的は、死ぬことだ」とか「始まりのあるものは終わりがあるのだ」といった映 画マトリックスのスミスではないが、人間とは自然界における死の過程である、という直線的時間感覚が通奏低音のように響いているのを感じてしまうのは、ぼ くの理解の浅さであろうか。幼少期に異常なほど「金銭」に興味を抱いたラカンのエピソードを新宮氏は語っていたが、フロイト-ラカン的なファルス的欲望論 は、ドゥルーズ=ガタリをして、あの長大な反精神分析の書『アンチ・エディプス論』を書かせた動機になっていると思われる。
ところでラカンの欲望論は、資本主義的欲望を乗り越える反対方向のベクトルの欲望をも示唆している。
ここでもう一度自己言及の不可能性と言語の他者性の問題に立ち返ることにする。
新宮氏の『ラカンの精神分析』によれば、イエスは、この自己言及の不可能性についてよく知っていたという。イエスが「私は、世の光である」というと、パリ サイ人は。「あなたは、あなた自身の目撃者になろうとしている。だからあなたの証言は、本物ではない」と反駁する。するとイエスは「たとえ、私が自分のこ とをあかしても、私のあかしは真実である。それは、私がどこから来たのか、またどこへ行くのか知っているからである。」「私自身のことをあかしするのは、 私であるし、私をつかわされた父も、私のことをあかししてくださるのである。」(ヨハネ八章十二節以下)
イエスは、一人でありながら父と共にあるので、二人なのである。ここでは言表行為と言表主体のパラドックスは、これまたパラドクシカルな形で解消される。 イエスは別にしても自己言及のパラドックスを乗り越えるためには、自己の言表行為を他者の眼を持って見る、あるいは自己の中に複数の他者を発見するという ことではないのか。それは一面自我が規定した自己のアイデンティティーの喪失で、自己の非中心化ではあっても、「人生色々」といった無関心と同義語の相対 化ではない。聖シモーヌ・ヴェイユなら、こんな風に言うだろう。「わたしには本質的な欲求があります。それを召命と呼んでもよいと思います。さまざまな人 々や人間的環境のあいだに入り込み、かれらと混ざりあい、良心に反するのでないかぎり、万事において同じ色合いをおびて、かれらのなかに溶けて消えてしま うという欲求です。」また「私とは、一個の他者である」と感得したランボーは、「永遠を、海と溶け合う太陽を」見つけたのではないだろうか。
イスラームのスーフィー導師は、次のように問いかける。「あなたは、心が自分自身の心全体を観察している様を想像できるだろうか。もし心全体が観察に没頭 しているならば、何が観察を行なうのだろうか。自己観察は是非とも必要とされているが、その一方でひとつの自己が、その非自己の部分とは別に存在してい る。」
ルーミーは次のように歌っている。
世界に誰か恋人がいるならば、おお、ムスリムよ、それは私だ。
誰か信仰者、あるいはキリスト教の隠者がいるならば、それは私だ。
酒粕、酌人、吟遊詩人、ハープ、音楽、愛人、蝋燭、酒、酔人の喜び、それは私だ。
世界の七十二の教義と教派は、真の存在にあらず、神にかけて誓うが、
すべての教義と教派、それは私だ。
地、空、水、火、否、霊肉も、それは私だ。
真実と虚偽、善と悪、安寧と困窮、はじめから終わりまで、それは私だ。
・・・・・
もう一人のスーフィー導師、イブン・アラビーの歌は、もっと明示的だ。
私の心は、どんな形態をとることもできる。修道僧にとっての修道院。
偶像神のための礼拝堂、ガゼルのための牧草地、信者のカーバ。
『トーラー』や『クルアーン』の法典
愛は、私が守る信条である。
彼の駱駝たちがどこへ向かおうとも
愛は、それでも、私の信条であり続ける。
さてここで、一応の結論は、出たように思う。ナスルッディーンは何を言いたかったのか。
ぼくは、まず自己言及のパラドックスを確認して、ラカンから言語の他者性を学び、意味の意味の次元とは何か、を問い、イブン・アラビーから愛の可能性に思 い至った。