虹彩




私は画家として、生まれてきた。が、未だ一枚として絵画をなしたことはない。
此処にはそうした人間を多く見かける。
哲学者として生まれ1つの概念も成さず、音楽家として生まれてきたものは
一遍の旋律すら残さず、
硝子拭き職人として生まれてきたモノが一枚の硝子を磨かず。
私の場合で言えば子供のころに絵らしきものを描かされた記憶はあるが、
どれも明瞭な記憶とは言えず
そのどれもが私の絵ではなかった。

私が自らを画家だということに気付かせたのは、この眼が映し出す世界の特殊性である。
この眼に映し込まれるものはすべて、銀色に輝く。
景色は色になり、光になり、景色になり、人物もまた輪郭を越えて輝き出す。
駅の真ん中に並んでいる街路樹の緑色の数を数えてみたことがあるかね?
バスの鈍い銀色のフレームが跳ね返す光の数は?
刻々と変化する日々の、日常の風景が未だかつて一緒だったことがあるだろうか?

街路樹を射す日光を下から覗き込む。
左の眼に見えるのは印象派の油絵のタッチ、野獣派の色彩を思い起こさせる
調和、匂い、温度、そして無音である。
右の眼に集まる光は、対象となる枝葉から放たれるあらゆる種類の色とその波長
階調らの微細な違いを刺激として脳に響かせる。
ますます私の脳は眼を覚まし、覚醒していく自分を感じ取ることができる。
それから目の前にあるすべてのものが銀色に輝き出すのだ。
彼らは1つとして自らの輝きに遠慮することがない。
自惚れなく、自分がいかにこの宇宙で輝いているかを知っている。
そこにはなんの疑問も存在はせず
ただ存在という思考が漂っている空間に濃密な思想が凝縮されて、在る。
尤も我々はそれをモノとしか呼ばない。

私も日常生活に困らないくらいの、日常的な視野を獲得している。
非常に分析的且つ、標的を確実に射とめる視野だ。
そしてこれは目的を遂げることにすべてが凝縮されているとても密度の濃い
エネルギーを投射する。
このエネルギーに波長を合わせ続けられるほど人間の精神は強くはできていないし
その前にコントロールを失わせる。
程良く目的を忘れていき、精神の均衡は保たれていく。
そして、眠ることが可能となる。
忘れるような目的は差ほど重要ではなく、また目的を忘れなければ没頭している
現在から離れずに済む。

人と人の間で話しているうちに私はいつの間にかぼんやりと彼や彼女をいつものように観る。
やがて彼の顔はスピーカー付きの鳩時計から、トランペット を口に装着したペンギン、
蟻、ネズミ、鳥、猫、あらゆる生物の進化を目の前で繰り返し
最終的には音に反応して色と形を変える幾何学模様へと変わっていく。
怒っていようが、涙をながして号泣していようが、椅子から転げ落ちそうなほど
腹を抱えて笑っていようが
どぶ川すら銀色に眩しいくらいに輝く。
また、自然を目の前にするほど興奮するものはない。
海へ行くたびに私は卒倒しそうなくらいの目眩を感じる。
あ まりに広く、大きく、光の洪水に飲み込まれ、そのまま意識を失い、
失禁するのではなかろうかというほどの恍惚に浸される。
ソラと海の間には境界が存在しない。
無限にさらされる恐怖と喜びはなににもまして、神的であり、宗教的であり
また善悪の彼岸では、極を一とする。即ち歓喜。

神を見ようと熱心に祈る宗教者は例外なく自らの内にある神を見いだす。
そこでしか神に出会えないのだと気づくとき、絶望的なまでの救済への願いは誰の為か。
神の胎内に向けられたその眼差しは熱いが、より多くの事柄を見極めなければならない。
目の前に広がる宇宙から神を見いだせないモノが、何故自らの内に見いだせると
言い得るだろうか。
自分の目に映るものがすべてが神であるなんてことは信じたくないらしい。
善き神。
いや神はこれまでも、またこれからも裁くことはない。
なにせ、善や悪が生まれる前から存在しているのだから。
よく光を捕らえてみることが唯一この幻想から離れられる手段だ。
この世に最初から善として生まれてきたモノも、悪として生み出されたモノも存在しない。
そして人間とて例外ではないのである。