聖ゲオルギウスと五月祭(1)


今日は、昔ある本を訳したときから、気にかかっていたテーマについて書いて見たいと思う。昔、翻訳の関係で聖ジョージという英国の守護聖人の出自に ついて、少し調べてみたが、どうも色々とよく分からないことがあった。聖ジョージの起源については、12世紀のジェノヴァ司教のヤコブス・デ・ヴォラギネ (1245−1273)の『黄金伝説』で語られる聖ゲオルギウスが、有名である。その当時ぼくが、調べた訳注は、以下のようなものである。
「ジェノヴァの大司教ヤコブス・デ・ヴォラギネの『黄金伝説』で語られている聖者。それ以前の聖ジョージ像は、7世紀のキプロスの司教アルカディオ スから、ゲオルグは、不当な圧迫から人々を守護する者、病気を治癒する者、あるは家畜を守護する者、葡萄を実らせる者とも呼ばれていた。牧畜の守護聖者で あったらしい。小アジアでは、ゲオルギエン、キプロスではこの聖者崇拝がさかんであった。またエジプトのコプト教会では、コプトの信仰を守る大聖者であ る。またリチャード獅子心王は、聖ジョージを自らの守護神とし、1222年のオックスフォード教会会議で英国の守護聖者となる。13世紀後半になると、ゲ オルグは「永遠に女性なるもの」「マリアの騎士」「純潔の擁護者」と呼ばれるようになり、求道の騎士へと発展してゆく。また農民、牧人に敬われ、馬の守護 聖人でもある。また山の野生の狩猟獣の聖者でもある。またヒドルと同様に聖ジョージも緑色をしている。フレイザーの『金枝篇』によれば、オーストリア南部 やトランシルヴァニア地方ではグリーン・ジョージと呼ばれる木の葉で覆われた若い男が主役の祭儀がある。」
当時この註を作っていたときから、聖ジョージは、どうもキリスト教に回収しきれない何か両義的なものを感じていた。先のヴォラギネの聖者伝説によれ ば、聖ゲオルギウスは、3世紀に生きたカッパドキアの人で、キリスト教に改宗した、龍退治で有名な聖人であり、天使ミカエルの龍退治と並んで多くの画家の 画題になっている。
物語の概要は以下の通り。
http://home.ix.netcom.com/~kyamazak/myth/christian/legenda-aurea-george-j.htm
龍退治の主題は、キリスト教の異教征服の象徴の表現でもあり、また女性神崇拝の円環的時間に対して、ユダヤーキリスト教的な終末論にまでいたる直進 的な進歩史観の象徴でもあり、たぶんにキリスト教の護教的色彩の強いものである。またシリアの資料では、蛇退治になっているようだ。
幻想大事典:ドラゴン:http://www1.atwiki.jp/occultfantasy/pages/122.html
蛇と聖ゲオルギウス:http://blog.so-net.ne.jp/lapis/2005-04-26-1
シリア資料:http://sor.cua.edu/Personage/Qadishe/MGewargis.html
しかしさまざまな西欧絵画で表現されている龍を槍で指すジョージ像は、どうも訳注の聖ジョージに絡むイマージュ群と奇妙に齟齬している。ぼくが、そ う思うようになった最初のきっかけは、五月祭であった。メイポールを立て、ロビンフッド劇やグリーンマンやモリス・ダンスを踊る五月祭の催し物の中には、 聖ジョージ劇も加わっている。その共通項は、「緑」であり、また13という数でもある。要するに五月祭の取り囲むイマージュ群は、大地の豊饒性を伝える女 性的な要素である。そもそもゲオルギウスという名も、「geo」大地を耕す者という意味に由来している、という。どうも(マグナ・マーテル)太地母神的な カオスを殺害して、コスモスを齎す英雄といった解読では、とても済みそうにないのである。実は、意識というものを捉える上で、聖ジョージの伝説は、とても 面白いものを含んでいるように思えるので、これまで調べた資料をもとにして、何回かに分けてもう少し詳しく考えて見たいと思う。
五月祭は、初めから教会からは異教の祭りと白眼視され、たびたび禁止されていた。こうした異端視されていた祭の中に、聖ジョージ劇が入っているのだ から、当時のフォークロアが、聖ジョージには異教的イマージュを感受していたことを、物語っている。五月祭そのものは、キリスト教以前の自然宗教であった ケルト的なものが、起源であるという説が有力であるが、どうもあまりにも漠然としているのである。そもそもヨーロッパ文化の基層として積極的にケルトに眼 を向けるようになったのは、18,9世紀の頃からであり、いわば西欧キリスト教近代のアイデンティティの揺らぎと連動している。
確かに、ケルトは、中央アジアからイベリア半島、そして「島のケルト」とその分布は広範だ。広範すぎて何か雲をつかむような感じがしないでもない。 英国における五月祭の起源は、早くとも12世紀と見られていて、それ以前の資料はないらしい。現在のような催し物は、ルネッサンス期にできたようだ。
英国の聖ジョージの歴史を綴ったサイトによれば、
http://www.knyght.co.uk/My%20Webs/HISTORY/3Made%20known.htm
聖ジョージの伝説は、既に7世紀には英国に伝わっていたようであるが、ノルマン征服以前に、聖ジョージに献納された教会は、ごくわずかだったとい う。
また以下のような興味深い記述もある。
『しかしながら聖ジョージの物語は、どんなに遅くとも700年代に書かれたサクソン人著述家のイマジネーションには、根を下ろしていた。『アヴェロ ン島探求』(アヴェロン島は、アーサー王や英雄たちが死後におもむいたといわれる極楽島)という本で、ジェオフリー・アシェは、8世紀の文献の含まれてい る聖ジョージ伝説について語っている。
その伝説によれば、アリマタヤのヨセフと十二使徒のピリポは、リュダ(聖ジョージの墓があるところと仮定されている地)へ旅し、その地で聖母マリア のために教会を献納した、とされている。この教会は、ヨセフの庇護に置かれた。彼らを受け入れた王は、キリスト教徒にはなろうとしなかったが、彼らに 「Ynys Witrin」の島を与えた(その後これは、グラストンベリーのことだ、というものもあった)。その地に聖母マリアの純潔を讃えて草葺屋根の 教会を建てたが、それは王自身によって献納されたものである、といわれている。』
『The story of St George did, however, take root in the imagination of Saxon writers during the 700s at the latest. In his book Avalonian Quest, Geoffrey Ashe tells of a Georgian legend contained in an eighth-century MS. The legend says that Joseph of Arimathea and St. Philip, the Apostle, travelled to Lydda and there consecrated a church to St. Mary. This church was put in Joseph's care. The king who received them would not become a Christian but gave them the island of 'Ynys Witrin' (later identified by some with Glastonbury) where they built a wattle church in honour of St.Mary, which it was claimed had been dedicated by the Lord Himself.』
アリマタヤのヨセフといいい、グラストンベリーといい、聖杯伝説と縁の深い名である。
後に聖ジョージが、「聖母マリアの騎士」「純潔の擁護者」と呼ばれるようになる伏線が、既に引かれているように思われる。それだけではない。後で見 るように、聖ジョージの起源は、聖杯伝説の起源と奇妙に重なっている。
それはさておき、聖ジョージの伝説が隆盛を極めるのは、やはり十字軍のようである。
『十字軍の時期、聖ジョージの表象は、際立ったものになる。1063年のノルマン人とシチリアのムスリムとのセラニーでの闘いで、十字の装飾を施さ れた白旗をつけた槍を持った、輝く甲冑を身に纏い白馬に跨った聖ジョージが、ノルマン人に現れた、と言われていた。それと同時に、ロジェーヌの宮廷のノル マン人の隊長の槍にも、その旗が現れた』
The figure of St George became prominent, however, during the Crusades. At a battle between the Normans and Sicilian Moslems at Cerami in 1063, St George was said to have appeared to the Normans on a white horse wearing shining armour and bearing on his lance a white banner decorated with a cross. At the same moment the banner appeared on the lance of the Norman leader, Count Roger.
いつの時代もそうだが、聖ジョージの神話的表象は、もっぱらサラセン人との戦意発揚の具として、絶大な効力を発揮したようだ。いつの世でも、宗教的 原理主義は、戦争にはつき物である。窮地に救い主が出現するという逸話は、リチャード獅子心王が、聖ジョージを自らの守護聖人としたくだりでも、登場す る。
『リチャード一世が、1191年から1192年のかけて、パレスチナでの第三回十字軍の軍事行動の際、アッコンの闘いのときに聖ジョージが十字軍に 現れて彼らを勝利に導いた。その後 王は、リュダで聖ジョージの墓を発見し、彼の軍隊を聖ジョージの庇護の下に置けという夢に従い、聖者の墓を修復した、 といわれている。もう一つの伝説では、その軍事行動の期間中に、リチャード王の軍隊が、アッコンから海岸沿いに行進していたとき、後方部隊が、圧倒的な数 のサラセン人に攻撃され、窮地に陥った。しかし彼らのうちの一人が、闘いに熟達したその聖者に助けを求めて叫びを上げると、聖者は現れなかったが、士気を 取り戻し、彼らの軍隊は、防御から攻撃に転じることができ、二回の突撃で、敵を敗走させることができた、というものであった。』
『When Richard I was campaigning on the Third Crusade in Palestine in 1191-92, at the siege of Acre, St George is said to have appeared to the Crusaders and led them to victory. Subsequently, the king is said to have discovered the tomb of St George at Lydda and, following a dream, put his army under the protection of St George and repaired the saint's tomb. Another tradition has it that during that campaign, when Richard's army was marching along the coast road from Acre, the rearguard was attacked and outnumbered by Saracens. Their plight was serious; but one among them cried to the warrior saint for aid, and though he did not appear, so strengthened their hearts and their arms that they were able to pass from defence to attack and, in two splendid charges, to drive off the enemy.』
ここでは、聖ジョージは、ハリウッドB級映画なみの、すっかり異教徒と戦う「軍神」である。今でも聖ジョージを国の守護聖人としている英国という国 家の素性が知れようというものである。ところでもっともこれらの伝説は、1672年にエリアス・アシュモールによって書かれたガーター勲爵士団の歴史から 取られたもので、何の根拠もないらしい。
ともあれ、この聖ジョージのサイトによれば、十字軍とトゥルバドールによってその物語は流布されたことを告げている。
『聖ジョージの物語は、主に十字軍によって西欧に伝えられた。彼ら(十字軍)は、既にそれ以前に聖ジョージを自分たちの軍隊の守護聖人としていたビ ザンチンの軍隊から聖ジョージについて聞いており、その物語は、その後さらにトゥルバドールによって流布された』と記されている。
『Stories about St George were mostly transmitted to the West by Crusaders. They heard them from Byzantine troops, who had previously adopted St George as patron saint of their armies. The stories were circulated further by the troubadours.』
トゥルバドールといえば、獅子心王の母、アリエノールは、初代トゥルバドールのギヨーム9世の孫娘にあたる。また初めてのアーサー王説話や聖杯物語 が、書かれたのは、アリエノールとルイ7世との間の娘、つまりリチャード王の異父兄妹のマリー・ド・シャンパーニュの宮廷であった。またレジェーヌ・ペル ヌーによれば、ロビン・フッド武勲詩は、はじめトゥルバドールによって歌われたということであるが、アリエノール以前には、英国にトゥルバドールは存在し なかった、明言している。そういうわけで、次には、ヘンリー2世に始まるプランタジネット統の前身を辿って見たいと思う。でも今日は、これまでにします。