注記 *


注1.   この偏差は次の二点で「自然主義」のクリーナーメンと異なる。①クリーナーメンが空虚とアトムを前提しているのに対して、この偏差は実体と微粒子を前提している。ところで、実体には空虚はなく、微粒子は分割不可能なもの(ἄτομος,ἄτομον)ではない(勿論、だからと言って、分割可能なわけではない)。そもそも実体の無限様態は分割不可能であり、微粒子はその実体の極限様態である。分割可能なのは有限様態であり、従って、アトムはその有限様態を分割した果てに見出されるものである。②クリーナーメンは空虚中でのアトムの等速落下運動に対して言われることである。その運動の速さと方向は一定のものである。一方、この偏差は第一特徴の運動や静止に対して言われることである。その運動は様々な方向に様々な速さでなされる。また、等速落下運動がアトムと空虚との相関関係であるのに対して、第一特徴の運動と静止は微粒子と実体の無限様態との相関関係ではない。それは微粒子どうしの相関関係である。個々の微粒子の運動がどのような速さと方向でなされようとも、それらが互いに遠ざかるか近づくだけならば、それは第一特徴の運動であり、それらが互いに遠ざかることも近づくこともなければ、それは静止である。ところで、この偏差は次の点でクリーナーメンと一致する。クリーナーメンは「最小限の連続的な時間よりもさらに短い時間のなかで行われる」綜合である。物理学の表現に置き換えるのならば、アトムの「最小限の連続的な時間における単一の方向」は運動する質点が瞬間ごとにとる速度ベクトルの方向であり、アトムの「運動の速さ」はそのベクトルの大きさである。質点の運動が一方のベクトルから他方のベクトルへと連続的に変化するとき、その質点は一方のベクトルを持った瞬間、既に他方のベクトルに向けて何らかの力を受けている。もしもそうでないのならば、次の瞬間にその質点が一方から他方へとベクトルを変化させることもない。従って、その力がその質点に作用を及ぼす時間は、その質点が各ベクトルを持つ瞬間よりも「さらに短い」ことになる。アトムの速さと方向を規定するのは力の作用ではなく、そのアトムの運動と他のアトムからの「衝撃」との綜合である。一方、微粒子の速さと方向を規定するのは、その微粒子が他の微粒子たちのいなくなった場を占めることである。しかし、質点であれ、アトムであれ、微粒子であれ、その運動の変化が「最小限の連続的な時間よりもさらに短い時間のなかで行われる」という時間論に関しては違いがない。(Gilles Deleuze,Lecrece et le simulacre,dans les Etudes philosophiques,No.3,1961.ジル・ドゥルーズ『原子と分身 ルクレティウス/トゥルニエ』原田佳彦他訳、哲学書房、1986年。Ⅱ ルクレティウスと模像、77-88頁参照。)
注2.   Andre Leroi-GourhanLe Geste et la Parole2voltechnique et langage1964la memoire et les rythmes1965),Albin michelparis.アンドレ・ルロワ=グーラン『身振りと言葉』荒木亨訳、新潮社、1973年。第一部 技術と言葉の世界、第三章 原人と旧人、100-102頁参照。また、「一般に、最初の道具製作者はホモ・ハビリスやホモ・ルドルフェンシスといった初期ホモ属だったと考えられている。しかし、A.ガルヒのようなアウストラロピテクス類や、オルドヴァイ渓谷やクービ・フォラなどの遺跡で発見される最古のホモ属人類と共存していた南アフリカの頑丈型アウストラロピテクスも石器使用者あるいは石器製作者だった可能性がある。」(Chris Stringer and Peter Andrews,The Complete World of Human Evolution,Thames Hudson Ltd,London,2005.クリス・ストリンガー、ピーター・アンドリュース『ビジュアル版人類進化大全-進化の実像と発掘・分析のすべて-』馬場悠男他訳、悠書館、2008年。第Ⅲ部 化石証拠の解釈、道具とヒトの行動:最古の証拠、208頁参照。)私たちの以下の議論は切断、内包量と外延量、そして、反復と繰り返しの問題を具体的にイメージするために展開されている。従って、それぞれの石器製作者が誰だったのかはここでは重要でない。
注3.   ルロワ=グーラン、103-105頁参照。また、握斧に関しては「この石器はホモ・エルガステルかホモ・エレクトスによって最初に作られたと考えられているが、後にはボックスグローブ人骨などのホモ・ハイデルベルゲンシスによっても作られた。」(ストリンガー、208頁参照。)
注4.   ルロワ=グーラン、107-110頁参照。
注5.   ところで、これらの記号内容は言葉の意味ではない。意味は言語という記号系に固有の記号内容であるのに対して、これらの記号内容はその内包量と外延量のシークエンスに固有のものである。
注6.   技術の模倣や磨き上げにはより効率的な方法というものがあり、これが同じ技術をめぐる個体群間に技能の差をもたらす。即ち、より効率的な方法を持つ個体群の方がそうでない個体群よりも高い技能集団となるわけである。それに対して、美的創造にはそうした方法というものがない。なぜならば、反復をより効率的に生ぜしめることなど不可能だからである。反復は生じるときには生じるが、生じないときには生じない、ただそれだけである。しかし、だからと言って、まったくの偶然に委ねられているわけでもない。美的創造にもその学び方というものがあるのだ。美しさを感じるためにはその感覚を自らの精神において反復しなければならない。いつか誰かがその解放された諸情動を組み合わせることによって、そうした反復を自らの精神において生ぜしめる。しかし、身振りの場合とは異なり、ひとはその感覚を自らの精神において反復することなしに、その美的概念を繰り返すことが出来ない。即ち、他者の創造した対象に美しさを感じるためには、その他者の精神において生じた反復を自らの精神において繰り返さなければならない。それはその対象を通して、自らの精神に諸感覚の繰り返しからの偏差を生じさせることであり、更に、その偏差の巻き込まれた反復を生じさせることである。美的対象を創造するためには、各個体がこうした反復の経験を積むこと以外に術はない。
注7.   フランス語の口腔母音は、「口の開き」に「狭」から「広」まで4段階の切断関係があり、「唇の形」に「平唇」と「円唇」の切断関係があり、「舌の位置」に「前舌」と「後舌」の切断関係がある。そして、「口の開き」と「唇の形」と「舌の位置」が連結関係にある。(田村毅他編『ロワイヤル仏和中辞典』旺文社、1984年、1985年。付録、発音と綴り字、2002頁参照。)
注8.   フランス語の子音は、「調音法」に「閉鎖音」「摩擦音」「鼻音」「流音」の切断関係があり、「調音器官」に「唇[+歯]」「歯裏+舌」「口蓋+舌」の切断関係があり、声音に「無声」と「有声」の切断関係がある。そして、「調音法」と「調音器官」と声音が連結関係をなしている。(同、2004頁参照。)また、ドイツ語の子音は「Explosiva破裂音」「Frikativa摩擦音」「Nasal鼻音」「Vibrant弾き音」「Lateral側音」「Affrikat破擦音」の切断関係があり、「Bilabial両唇音」「Labiodental唇歯音」「Dentalalveolar歯茎音」「Palatal硬口蓋音」「Velar軟口蓋音」「Uvular口蓋垂音」「Glottal声門音」の切断関係があり、「Stimmhaft有声」と「Stimmlos無声」の切断関係がある。そして、それらが(E|F|N|V|L|A)‐(B|L|D|P|V|U|G)‐Sという連結関係をなしている。(ロベルト・シンチンゲル他編『現代独和辞典』三修社、1984年。付録、文法、2-2子音,1267-8頁参照。)また、サンスクリット語の子音は「軟口蓋音」「硬口蓋音」「反舌音」「歯音」「唇音」の切断関係があり、「閉鎖音」と「鼻音」の切断関係があり、「無気」と「帯気」の切断関係があり、「無声」と「有声」の切断関係がある。そして、それらと「歯擦音」が連結関係をなしている:(軟|硬|反|歯|唇)‐歯擦音‐(閉|鼻)‐(無気|帯気)‐声音。(J.ゴンダ『サンスクリット初等文法』鎧淳訳、春秋社、1974年、1984年。音論、§1子音、9頁参照。)
注9.   ただし、「シ」(shi)は歯舌音ではなく口蓋舌音であり、「チ」(chi)と「ツ」(tzu)は「破裂音‐歯舌音」ではなく「摩擦音‐口蓋舌音」であり、ハ行子音は全体に「シ」よりも喉に近い口蓋舌音である。
注10.    「俺は母音の色を発明した。―Aは黒、Eは白、Iは赤、Oは青、Uは緑。」(J.N.A.Rimbaud,UNE SAISON EN ENFER,1873.ランボオ『地獄の季節』小林秀雄訳、岩波書店、1938年、1984年。錯乱Ⅱ、言葉の錬金術、30頁参照。)
注11.    例えば、意味体系は音韻体系における偏差を緩和する機構として機能する。私たちは後に、意味の発生について考察する。
注12.    ラヴィ・シャンカルの語る「ラーガ」と「ターラ」は、解放されたピッチとリズムがどのように連結・切断関係に置かれるのかを教えてくれる。「ラーガとは伝統によって構築され、すぐれた音楽家の精神の中で生まれ、ひらめいた旋律的な枠のことなのである。(中略)どのラーガも、ある音階に属さねばならない。すなわち、当該の音階パターンの中にある特定の音だけが、ある与えられたラーガに用いられるということなのである。おのおののラーガは、基本音階と呼ばれている音階の一つから引き出される。(中略)カルナータカの理論が広く行われている南インドには、メーラとかメーラカルタ(「旋律を支配するもの」)とよばれる72の基本音階があるが、これらは7つの基本的な音、スワラの組み合わせによって作り出される。(中略)音階は、理論上4音から成る2つのグループ―上および下のテトラコルド―に分かれる。下のグループ(サ・リ・ガ・マ)はプールバーンガあるいは『第1の部分』と呼ばれ、上のグループ(パ・ダ・ニと上のサから成る)はウッタラーンガまたは『上の部分』とよばれる。(中略)ラーガはたいてい2つのテトラコルドのどちらかに重きを置いているものであり、これがある程度までラーガの表現や雰囲気を決めている。どのラーガも、ちょうど西洋音階が下の主音から1オクターブ上の主音へと上がり、また下がってくるのと同様に、はっきりとした上行、下行構成をもっている。上行形はアーローハナといわれ、下行形はアバローハナといわれる。(中略)ラーガは3つのジャーティ(階級)に分類される(中略)。すなわち、音階の7音全部を用いるサンプルナ(7音階)、6音を用いるシャーダバ、5音階のアウダバの3種である。そしてさらにラーガは、この3種のジャーティから選ばれた6種のさまざまな『混合した』カテゴリーに細分類される。たとえば上行音列にサンプルナを用い、下行音列にアウダバを用いるラーガや、上行にシャーダバ、下行にサンプルナを用いるラーガなどがある。(中略)上行、下行の組み合わせに用いられる音の数による分類のほかに、個々の音も低められたり高められたりするという区別がある。たとえば、下行のときには1つないし2つの音がフラットになり、上行ではそれぞれがナチュラルのままである。あるいはその逆の用法などは別に珍しいことではない。『ホームベース』のような役割をしているサ(主音)を別にしても、各ラーガにはバーティ(『響く音』)といわれる支配的な音が一つある。(中略)音階中の2つのテトラコルドが互いに反映し合い、また相応し合っていることはすでに述べた。したがってラーガにはバーティに相応する、バーティの次に重要な音(サムバーティとよばれている)があり、これはもう1つのテトラコルドに含まれている。サムバーティはたいてい、バーティから4度か5度離れているのだが、それは協音の表現を強める。当該のラーガに含まれる音のうちバーティとサムバーティ以外の音はアヌバーティ(類音)とよばれる。与えられた音階の外にあるすべての音はビバーディ(『敵』あるいは不協音)とよばれ、それらの音が属していないラーガでは、演奏されることはない。しかしごくまれには、ビバーディが不協音としての特別な効果のためにラーガに用いられることがある。」(Ravi ShankarMy MusicMy LifeSimon and Schuster Rockefeller Center1968.ラヴィ・シャンカル『わが人生わが音楽』小泉文夫訳、音楽之友社、1972年。Ⅰ 遺産、ラーガを構成する要素、26-30頁参照。)「ちょうどラーガがインド音楽の旋律の基本的要素であるように、ターラは時間やリズムに関する本質的な要素なのである。(中略)リズムという言葉をもっと広い意味にとれば話は別だが、ターラは種々のマートラ(リズムの単位)から成る有機的なリズム周期を示している。インド音楽は極度に複雑なリズムの体系を発展させてきた。1つのリズム周期は3から108―あるいはそれ以上の―の拍から作られるが、音楽家が非常によく用いるのは、1520のターラに過ぎない。インド音楽をたいへん深く理解するような、選りすぐれた聴衆のためには、ときにはさらに30とか40のターラが演奏される。個々のターラに含まれている拍には、さまざまな重要度がある。もっとも大きく強調される拍は、サムである。その他の重要な拍はターリーとよばれ、アクセントを持たない拍(空拍)はハーリーと呼ばれる。インドの音楽で時間を正しく保つために、われわれは手を打ち鳴らして拍を示す。サムとターリーのときには手を叩き、ハーリーのときには手を差し出す。その他の拍のときには重要な拍と拍との間の拍数によって、指を小指、薬指、中指などというふうに折り曲げて数える。」(同上、ターラ―手をうち鳴らす、39-43頁参照。)
注13.    石桁真礼生他『楽典 理論と実習』音楽之友社、昭和40年、昭和50年。第5章 音階、Ⅱ その他の音階、1 教会旋法、131-133頁参照。
注14.    Jakob von Uexkuell/Georg KriszatStreifzuege durch die Umwelten von Tieren und Menschen1934Jvon UexkuellBedeutungslehre1940SFischer Verlag GmbHFrankfurt am Main1970.ヤーコプ・フォン・ユクスキュル/ゲオルク・クリサート『生物から見た世界』日高敏隆・野田保之訳、思索社、1973年。第一部 動物と人間の環境世界への散歩、第十一章 探索像と探索のトーン、112-114頁参照。
注15.    例えば、「蛙が蝉に飛び掛かる」という出来事に関して、日本語から次のような人工言語の線状連結の規則を構想するのも面白い。「カワズ‐トビカカル‐セミ」という音節束と「セミ‐トビカカル‐カワズ」という音節束は互いに切断関係にある。このとき、「トビカカル」という音節束よりも前に来る音節束は相手に飛び掛る側を指示し、それよりも後に来る音節束は相手に飛び掛られる側を指示するとあらかじめ決めておくのだ。そうすることによって、それらの切断関係を「蛙が蝉に飛び掛る」と「蝉が蛙に飛び掛る」の区別に割り当てることが可能になる。
注16.    同じく、次のような「曲用」や「活用」の規則を持つ人工言語も構想可能である。「蛙」と「蝉」の記憶にそれぞれ「カワズ」と「セミ」という音節束を連結するばかりでなく、それらの音節束を「主格」(即ち、相手に飛び掛る側を指示するもの)とする。そして、「与格」(即ち、相手に飛び掛られる側を指示するもの)としては、それぞれの記憶に「カワゾ」と「セモ」という音節束を連結する。このように決めておけば、「カワズ‐セモ‐トビカカル」という音節束と「セミ‐カワゾ‐トビカカル」という音節束の切断関係を、「蛙が蝉に飛び掛る」という感覚群の連結の仕方と「蝉が蛙に飛び掛る」という感覚群の連結の仕方の区別に割り当てることが可能になる。また、一方が他方に「飛び掛る」という出来事が未だ完了していない現在のことなのか(現在形)、既に完了した過去のことなのか(完了形)を区別するためには、前者には「トビカカル」という音節束を連結し、後者には「トビカカッタ」という音節束を連結する。このとき、両者に共通する「トビカカ」という音節束には「飛び掛る」という記憶が連結していない。それはちょうど「カワズ」という音節束が主格に連結し、「カワゾ」という音節束が与格に連結するという取り決めのもとで、両者に共通する「カワ」という音節束が「蛙」の記憶に連結していないのと同様である。勿論、日本語の「名詞」と呼ばれるものには「曲用」がない。また、日本語の「動詞」と呼ばれるものの「活用」は「現在形」や「完了形」などの時制によるものではなく、その語が他の語と接続するのかしないのか、接続するのならばどのような語と接続するのかによって形を変える。例えば、「トビカカル」が他の語と接続しない「終止形」とされるのに対して、「トビカカッタ」は「連用形+助動詞」とされる。こうした取り決めのもとでは、その音節束の変化は「トビカカル」と「トビカカッ」(連用形の促音便)の間にある。
注17.    同じく、実際の日本語は次のような線状連結の規則を採用している。即ち、「蛙が蝉に飛び掛る」という感覚群どうしの連結の仕方をそれ以外の連結の仕方から区別するためには、「蛙‐蝉‐飛び掛る」という連結を「蛙‐蝉‐佇む」の連結から区別するだけでは足りない。それらの区別はその記憶の連続体から「何が」を分節するだけだからである。事実、この区別だけでは「蛙が蝉に飛び掛る」のか、「蝉が蛙に飛び掛る」のかを区別することは出来ない。そこで、「ガ」を付加された音節束(「カワズガ」あるいは「セミガ」)は相手に飛び掛る側を指示し、「ニ」を付加された音節束(「セミニ」あるいは「カワズニ」)は相手に飛び掛られる側を指示するとあらかじめ決めておくのだ。このとき、「カワズ‐ガ‐セミ‐ニ‐トビカカル」という音節束と「セミ‐ガ‐カワズ‐ニ‐トビカカル」という音節束は互いに切断関係にある。それ故、そのように音節の付加の仕方を決めておくのならば、それらの音節束の切断関係をそれらの感覚どうしの連結の仕方の区別に割り当てることが可能になる。
注18.    松尾芭蕉『春の日』1686年。




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