微粒子の感覚学 § 6


物体の相互作用域は、その物体を構成する微粒子が他の微粒子たちに働き掛ける場であるとともに、それらが他の微粒子によって働き掛けられる場でもある。物体と精神は平行する。しかし、その精神が平行するのは、他の微粒子によって働き掛けられる、その物体を構成する微粒子たちの広がりばかりではない。それらの微粒子に働き掛ける、他の微粒子たちの広がりもまたその精神と平行するのだ。他の微粒子たちはそれぞれ近づき合うか、遠ざかり合うか、互いに静止している。あるいは、その運動と静止が第一特徴からの偏差をなしているか、繰り返される出来事を構成しているか、他の物体(その物体の構成要素も含む)を構成している。ところで、既に述べたように、感覚もまた思考の能動的様態であり、精神は諸感覚から構成されている。そして、感覚と平行する微粒子たちは、その物体を構成する微粒子とその相互作用域を占める微粒子のうち、他の物体あるいは出来事から働き掛けられているものと、他の物体あるいは出来事を構成する微粒子とその相互作用域を占める微粒子のうち、その物体に働き掛けているものとからなる。それ故、感覚には次の三つのタイプがある。①繰り返されない出来事からの働き掛けによるもの、②繰り返される出来事からの働き掛けによるもの、③他の物体からの働き掛けによるもの。しかし、繰り返される出来事からの働き掛けによるからと言って、その感覚が繰り返されるわけではない。また、他の物体からの働き掛けによるからと言って、その感覚が反復するわけではない。なぜならば、感覚と平行する微粒子たちは、一方が他方に働き掛け、他方が一方に働き掛けられるだけでは、その運動や静止が繰り返されることもなく、また、反復することもないからである。それらの感覚が繰り返されるためには、それらと平行する微粒子たちの運動や静止が互いに相手の繰り返しを支えるようにならなければならない。従って、繰り返されることになるのは、互いに相手の繰り返しを支え合う感覚の多である。勿論、感覚の多であれば、それと平行する微粒子群の運動や静止が繰り返されているというわけではない。また、それが反復するというわけでは更にない。それらの感覚と平行する微粒子郡には、他の微粒子群の相互作用域に入るものもあれば入らないものもある。それらの微粒子群が占める広がりのいつかどこかで、それ自体は繰り返されることのない運動や静止をなす微粒子が他の微粒子たちに対して、その繰り返しをなすように働き掛ける、そうした運動や静止が生起する。そのとき、その広がりと平行する感覚が反復する。
これらの感覚は切断されていない。しかし、切断された感覚に関しても、事情は変わらない。切断された諸感覚の内包量と外延量どうしを連結関係や切断関係に置くことは、それらの感覚と平行する微粒子群の一方を他方の相互作用域に置くことである。しかし、相手の相互作用域に置かれるだけでは、それらの微粒子群の運動や静止が繰り返されることもなければ、反復することもない。確かに、微粒子たちの運動や静止が第一特徴から偏差をなすだけでも、私たちはその微粒子たちの占める広がりを切断することが出来る。しかし、その有限様態が無限の広がりの中に消滅してしまうため、その内包量と外延量はたちまち「=0」になってしまう。内包量と外延量が「=0」以外の値を採るためには、その感覚と平行する微粒子群の運動や静止が繰り返されなければならない。ところで、ある微粒子群の運動や静止が繰り返されるためには、他の微粒子群の運動や静止がその繰り返しを支えなければならない。諸感覚が切断されている場合、私たちはそれらと平行する微粒子群どうしが互いに相手の運動や静止の繰り返しを支えるように、それらの内包量と外延量を連結関係や切断関係に置くことが可能になる。
例えば、母音の場合、私たちは先ず、音声を出すことの出来る「口」という器官の感覚を切断する。次に、その器官の感覚を「口を開く大きさ」と「唇の形」と「舌の位置」という三つの部分に切断する。そして、それぞれを更に「広い口」と「狭い口」、「平たい唇」と「丸い唇」、「前寄りの舌」と「後寄りの舌」に切断する。しかし、広い口の発する音声であれ、狭い口の発する音声であれ、それぞれの感覚だけではそれを繰り返すことが出来ない。なぜならば、口の開き具合には様々なものがあり、どこまでを「広い」とし、どこまでを「狭い」とするのか、あらかじめ決まっているわけではないからである。「広口音」という内包量と「狭口音」という内包量が切断関係に置かれることによって、それらの感覚と平行する微粒子群どうしは互いに相手の運動や静止の繰り返しを支えることになる。即ち、「広口音」とは様々な口の開き具合に応じて発せられる音声の中で「狭口音」でないもののことであり、一方、「狭口音」とは様々な口の開き具合に応じて発せられる音声の中で「広口音」でないもののことである。同様にして、「平唇音」と「丸唇音」も、「前舌音」と「後舌音」も、それらの内包量を切断関係に置くことによって、それらの感覚と平行する微粒子群どうしが互いに相手の運動や静止の繰り返しを支えている。また、どのような音声も、口の開き具合だけで発声できるものではない。口を広く開けた音声を発するためには、唇も何らかの形を採らなければならず、舌もどこかに位置しなければならない。同じく、唇の形だけ、舌の位置だけで発声できる音声などない。「広口音」あるいは「狭口音」も、「平唇音」あるいは「丸唇音」も、「前舌音」あるいは「後舌音」も、それら三つの内包量が連結関係に置かれることによって、それらの感覚と平行する微粒子群どうしは互いに相手の運動や静止の繰り返しを支えることになる。
こうした繰り返しを支える微粒子群は、内包量と外延量の連結・切断関係に組み込まれた諸感覚と平行するものばかりではない。また、その微粒子群と平行する感覚は必ずしも切断されていない。母音の連結・切断関係が可能になるためには、その部分的音声の内包量が「有」または「無」となるように、それらの感覚と平行する微粒子群がその運動や静止を繰り返していなければならない。そして、その繰り返しを支えているのは「口」の諸感覚と平行する微粒子群の運動や静止ばかりではない。それ以外の身体感覚と平行する微粒子群の運動や静止もまたそれを支えている。しかし、それらの身体感覚はその連結・切断関係に組み込まれていないし、必ずしも切断されていない。例えば、どのような母音も、「声帯」という器官の感覚なしには発声することが出来ないが、その器官の感覚は母音の連結・切断関係には組み込まれていない。一方、それは子音の連結・切断関係には「声音」という内包量として組み込まれている。たとえその感覚が母音の連結・切断関係に組み込まれていなくとも、それと平行する微粒子群の運動や静止がその部分的音声の感覚と平行する微粒子群の運動や静止の繰り返しを支えなければ、それらの内包量が「=0」以外の値を採ることはない。そして、口・舌・喉・胸・腹と連動した様々な筋肉の感覚、肺や横隔膜などの内臓の感覚、それらの運動や聴覚に関する神経の感覚などに至っては、通常切断されてすらいない。しかし、そうした一切の感覚と平行する微粒子群の運動や静止がその繰り返しを支えなければ、それらの内包量が「有」あるいは「無」という値を採ることはない。内包量と外延量の連結関係や切断関係が感覚の多の繰り返しをもたらすとき、それらの感覚と平行する微粒子群どうしは互いに相手の運動や静止の繰り返しを支えているばかりでなく、その連結関係や切断関係に組み込まれていない諸感覚と平行する微粒子群の運動や静止もまたその繰り返しを支えている。
言語が記号系であることは誰もが認めるところである。しかし、言語を待つまでもなく、母音と子音からなる音韻体系だけでも既に記号系である。なぜならば、次の三つの要件を満たしているのならば、それは立派な記号系だからである:
1. 諸感覚の内包量と外延量を連結関係や切断関係に置くこと、
2. その連結関係や切断関係のもたらす感覚の多が繰り返されること、
3. その繰り返しが複数の個体間に広がっていること。
諸感覚が切断されていないとしても、その感覚の多が繰り返されることはある。しかし、そのような感覚の多を「記号」と呼ぶことは出来ない。なぜならば、記号は他の繰り返される感覚とは異なり、切断された感覚に固有の内包量と外延量をその構成要素とするからである。逆に、たとえ内包量と外延量から構成されているとしても、その感覚の多が繰り返されないのならば、それは記号ではない。確かに、内包量と外延量の連結関係や切断関係はそれらの感覚と平行する微粒子群どうしを相手の相互作用域に置く。しかし、その出会いによって、その感覚の多が繰り返されるようにならないのならば、それは精神に絶えず去来する諸感覚のひとつに過ぎない。
そして、たとえ内包量と外延量の連結関係や切断関係によって、その感覚の多が繰り返されるようになったとしても、その繰り返しが個体のうちに限られているのならば、それは記号ではない。なぜならば、記号系を可能にする連結関係や切断関係はそもそも複数の個体によって共有されるものだからである。各個体において、感覚と平行する微粒子たちは、その物体を構成する微粒子とその相互作用域を占める微粒子のうち、他の物体あるいは出来事から働き掛けられているものと、他の物体あるいは出来事を構成する微粒子とその相互作用域を占める微粒子のうち、その物体に働き掛けているものとからなる。それ故、ある出来事が複数の物体に働き掛けている場合、各個体の感覚と平行する微粒子たちは、それぞれの物体を構成するものとその相互作用域を占めるものばかりでなく、その出来事を構成する微粒子とその相互作用域を占める微粒子のうち、それぞれの物体に働き掛けているものとからなる。従って、その感覚と平行する微粒子群には、それらの物体に共通するものと異なるものとがあるわけである。なるほど、複数の物体が同じ微粒子たちから働き掛けられているとしても、それぞれの物体を構成する微粒子が異なる以上、各個体の感覚と平行する微粒子群が全体として同じものになることはない。しかし、個体の構成関係に共通性が多ければ多いほど、それらの物体はより多くの同じ微粒子たちから働き掛けられることになる。従って、ある個体の広がりにおいて、第一特徴からの偏差をなす微粒子群どうしが相手の相互作用域のうちに入るとき、他の個体の広がりにおいても、それらの個体に共通する微粒子どうしは相手の相互作用域のうちに入る。そして、このことはそれらの微粒子群と平行する感覚の多が繰り返されるときも、また、その感覚の多が反復するときも同様である。
各個体の感覚と平行する微粒子群が同じ微粒子を含むとしても、その内包量と外延量の連結関係や切断関係をなすのはそれぞれの個体である。従って、それらの個体のなす連結関係や切断関係が同じものになるとは限らない。感覚の多の繰り返しがその感覚の切断を必要としない場合、その感覚の持つ共通性の程度に応じて、感覚の多はそれらの個体間で繰り返される。それは即ち、各個体の感覚と平行する微粒子群が同じ微粒子を含むことのひとつの効果である。一方、記号系の場合、感覚の多の繰り返しが複数の個体間に広がっていることは、その感覚の多が記号であるために不可欠の要件である。そして、そのためにはそれらの個体が内包量と外延量の連結関係や切断関係を共有していなければならない。そうでない限り、たとえ感覚の多が繰り返されたとしても、それはひとつの個体の広がりにおいてのことでしかない。既に述べたように、同じ出来事から働き掛けられる感覚であっても、それを思考する個体が異なれば同じというわけにはいかない。しかし、個体の構成関係に共通性が多ければ、各個体の感覚と平行する微粒子群がそれだけ多くの同じ微粒子を含むことになる。そして、感覚そのものが異なるとしても、その微粒子群が多くの同じ微粒子を含むのならば、それらの個体はその内包量と外延量の連結関係や切断関係を共有することが出来る。なぜであろうか。以下にそのことを説明しよう。
内包量と外延量の連結関係や切断関係はその感覚と平行する微粒子群どうしを互いに相手の相互作用域に置く。そして、それらの運動や静止が互いに相手の繰り返しを支えることによって、その微粒子群全体の運動や静止が繰り返されることになる。ところで、この全体的な繰り返しをもたらす微粒子群の組み合わせはいつも同じである必要はない。異なる組み合わせであっても、それらの微粒子群が互いに相手の運動や静止の繰り返しを支え、かつ、その全体としての運動や静止が同じものであるのならば、その感覚の多はいつでも繰り返される。一方、各個体の感覚と平行する微粒子群は、それらの個体がその構成関係を共通させればさせるほど、より多くの同じ微粒子を含む。それらの微粒子は、当然のことながら、同じ運動や静止をなしている。また、それらの個体がその構成関係を共通させている以上、それらの微粒子に働き掛けられた各物体における微粒子の運動や静止も互いに共通したものとなる。従って、各個体の感覚と平行する微粒子群は、それらが同じ微粒子を含めば含むほど、それだけその運動と静止を共通させるわけである。
今、ある微粒子たちを共有する微粒子群をA1,A2,…,Am,…とし、別の微粒子たちを共有する微粒子群をB1,B2,…,Bn,…とする。A1とB1が互いに相手の運動や静止の繰り返しを支えるのならば、全微粒子群A1+B1の運動や静止は繰り返されることになる。このとき、A2とB2が互いに相手の運動や静止の繰り返しを支え、かつ、A2+B2がA1+B1とその運動や静止を共通させるのならば、その共通部分と平行する感覚の多がそれらの全微粒子群間で繰り返される。一般に、微粒子群AmとBnが互いに相手の運動や静止の繰り返しを支えるとき、微粒子群AkとBlも互いに相手の運動や静止の繰り返しを支え、かつ、全微粒子群Ak+BlがAm+Bnとその運動や静止を共通させるのならば、その共通部分と平行する感覚の多がそれらの全微粒子群間で繰り返される。それ故、各個体における内包量と外延量の連結関係や切断関係がその感覚と平行する微粒子群にこうした組み合わせ{Am,Bn}をもたらすのならば、その共通部分と平行する感覚の多がそれらの個体間でも繰り返されることになる。ところで、各個体の感覚と平行する微粒子群どうしは十分にその運動や静止を共通させている。従って、その感覚の多はそれらの個体間で繰り返されるわけである。
複数の個体が内包量と外延量の連結関係や切断関係を共有するとはそういうことである。そして、一度、その連結関係や切断関係が共有されると、各個体の感覚と平行する微粒子群が同じ微粒子を含まないとしても、その感覚の多はそれらの個体間で繰り返される。なぜならば、その連結関係や切断関係がその都度、その運動や静止を十分に共通させた微粒子群をもたらすことになるからである。ひとつの個体においても、複数の個体間においても、感覚の多が繰り返されるために、そこで組み合わされる微粒子群がいつも同じものである必要など少しもないのだ。




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