微粒子の感覚学 § 7


既に繰り返されている感覚や既に反復している感覚を切断するのならば、その内包量と外延量は「=0」以外の値を採る。ところで、内包量と外延量の連結関係や切断関係はその感覚と平行する微粒子群の一方を他方の相互作用域に置く。従って、「=0」以外の値を採る内包量と外延量を連結関係や切断関係に置くことによって、私たちは既に繰り返されている微粒子群や既に反復している微粒子群どうしの出会いをもたらすことになる。そして、その出会いから、以下の運動や静止が生起する。
1. それらの微粒子群の運動や静止が繰り返されるか反復し続けるが、その相互作用によって生じる運動や静止は繰り返されることも反復することもない:
      
 このとき、既に反復している感覚は反復し続け、既に繰り返されている感覚は繰り返し続け、繰り返されない感覚は相変わらず繰り返されない。従って、これは私たちがその連結関係や切断関係をなす以前とほとんど変わりのない状態である。変化があるとすれば、それらの内包量と外延量の値がそれぞれの感覚を変えることなく増減するぐらいである。
2. その相互作用によって生じた運動や静止が繰り返されないばかりでなく、それらの微粒子群の運動や静止も繰り返されなくなる:
        
このとき、反復していた感覚や繰り返されていた感覚が繰り返されなくなる。それ故、それらの微粒子群どうしが出会わされた広がりを占めるのは、繰り返されない感覚だけということになる。この既存の感覚の消滅には、それらの微粒子群と平行する感覚の一つだけが繰り返されなくなる場合から、それらの感覚のすべてが繰り返されなくなる場合まで、様々な程度がある。
3. それらの微粒子群の運動や静止が繰り返されるか反復し続け、その相互作用によって生じる運動や静止も繰り返される:
             
 その相互作用によって生じる運動や静止が繰り返されるためには、それらの微粒子群においてそれぞれの運動や静止をなす微粒子が、他の微粒子たちに対して、その運動や静止を繰り返すように働き掛けなければならない。ところで、そのような出会いをなす微粒子群どうしの組み合わせには無限の系列がある。なぜならば、それらの微粒子群のいずれかがその相互作用によって生じた運動や静止の繰り返しを支え、かつ、それらの微粒子群全体の運動や静止が十分に共通するものであるのならば、それらの組み合わせはどのようなものであっても構わないからである。
今、それぞれの運動や静止が繰り返されている二つの微粒子群A1,A2があるとする。そして、それらが出会わされることで、その相互作用によって生じる運動や静止が繰り返されるのだが、それはA1がその運動や静止の繰り返しを支えるものとする。また、それぞれの運動や静止が繰り返されている、別の三つの微粒子群B1,B2,B3があるとする。そして、それらが出会わされることで、その相互作用によって生じる運動や静止が繰り返されるのだが、それはB1とB2がその運動や静止の繰り返しを支えるものとする。このとき、全微粒子群A1+A2とB1+B2+B3の運動や静止が十分に共通するものであるのならば、それらの微粒子群の組み合わせ{A1,A2}{B1,B2,B3}は同じ系列に属することになる。一般に、それぞれの運動や静止が繰り返されるか反復している微粒子群X1,X2,…,Xnがあり、それらが出会わされることで、その相互作用によって生じる運動や静止が繰り返されるとする。また、それぞれの運動や静止が繰り返されるか反復している微粒子群Y1,Y2,…,Ymがあり、それらが出会わされることで、その相互作用によって生じる運動や静止が繰り返されるとする。このとき、全微粒子群ΣXiとΣYjの運動や静止が十分に共通するものであるのならば、それらの微粒子群の組み合わせ{Xi}{Yj}は同じ系列に属する。
それらの微粒子群の運動や静止は既に繰り返されているか、あるいは、既に反復しているかのいずれかである。それ故、それらの運動や静止は他の運動や静止によって支えられる必要がない。従って、それらの運動や静止のいずれかがその相互作用によって生じた運動や静止の繰り返しを支えるのならば、全微粒子群の運動や静止が繰り返されるわけである。こうして、「=0」以外の値を採る内包量と外延量を新たな連結関係や切断関係に置くことによって、私たちは記号系を発展させることが出来る。
4. それらの微粒子群の相互作用によって、一方に、ある運動や静止が生じ、他方に、別の運動や静止が生じ、それらが互いに相手の繰り返しを支え合う。そして、その部分どうしの支え合いによって、その全体の運動や静止が繰り返される:
          
 3.の運動や静止と同様、このとき、既に反復している感覚は反復し続け、既に繰り返されている感覚は繰り返され続ける。しかし、3.の場合とは異なり、その相互作用によって生じた運動や静止は、それらの微粒子群の運動や静止によって、その繰り返しが支えられているわけではない。その繰り返しを支えているのはその部分どうしの支え合いである。従って、その全体はそれらの運動や静止の反復や繰り返しとは別個に、その運動や静止を繰り返しているわけである。それ故、その微粒子群と平行する感覚の多は、それらの感覚と異なったものになる。従って、私たちの精神はそれらの既に反復している感覚や既に繰り返されている感覚を思考するとともに、それらとは異なる、新たに繰り返される感覚の多を思考するわけである。
また、これは母音や子音が感覚される場合とも異なる。その記号系の場合、そこで連結関係や切断関係に置かれるものは、その感覚の多を構成する感覚そのものの内包量と外延量だけである。その連結・切断関係によって、その感覚と平行する微粒子群どうしが互いに相手の相互作用域に置かれ、それらの運動や静止が互いにその繰り返しを支え合い、そして、その感覚の多と平行する微粒子群の運動や静止が繰り返される。従って、その感覚の多の繰り返しをもたらすものは、それを構成する感覚そのものの内包量と外延量の連結関係や切断関係だけである。一方、こちらの場合、その感覚の多の繰り返しをもたらす内包量と外延量の連結関係や切断関係は、それを構成する感覚とは別の、既に反復している感覚や既に繰り返されている感覚の内包量と外延量の連結関係や切断関係によってもたらされる。従って、そこでは二種類の互いに異なる連結関係や切断関係が重なり合う。
例えば、既に繰り返されている感覚が母音と子音からなる「音節」である場合、それらの内包量を音の強弱の内包量と連結し、それらの外延量を音の長短の外延量と連結し、更に、その連結体どうしを連結・切断関係に置くことによって、私たちはその感覚の多を「リズム」として繰り返すことが出来る。これは音韻体系を発展させたものであり、従って、その運動や静止は3.の場合に他ならない。一方、その連結体を音の高低の内包量と連結し、その意味のない音声の束を私たちの記憶の内包量・外延量と連結し、更に、その連結体の連結体どうしを連結・切断関係に置くことによって、私たちはその感覚の多を「意味」として繰り返すことが出来る。これは音韻体系や記憶とともに、それらとは異なる意味体系が思考されるということであり、従って、その運動や静止は4.の場合である。また、その音声の束を意味と連結して「言葉」をなし、その言葉の束をリズムと連結し、更に、その連結体どうしを連結・切断関係に置くことによって、私たちはその感覚の多を「旋律」として繰り返すことが出来る。つまり、「語り」から「歌」への変化。記憶された「過去の出来事」(神話におけるものであれ、歴史におけるものであれ)を語るとき、私たちはそれらの言葉に「節」をつける。そのリズムがその言葉の束から「ピッチ」を解放する。そうした語りを通じて、私たちの精神において、様々な言葉の束の持つリズムとピッチが連結関係や切断関係に置かれる。そのとき、私たちは語りの意味を理解するばかりでなく、語られている言葉とは異なる音声の流れを聴くことになる。これは言語体系やリズム体系とともに、それらとは異なる音楽体系が思考されるということであり、従って、その運動や静止もまた4.の場合である注12
5. 微粒子群の運動や静止が繰り返されるか反復し続けるとともに、それらの相互作用によって生じた運動や静止が反復する:
     
 それらの微粒子群どうしの出会いから、その相互作用によって、それらの微粒子群いずれの運動や静止とも異なる、第三の運動や静止が生じる。しかも、それは単なる第一特徴からの偏差ではない。それはそれ自体繰り返されることのない運動や静止をなす微粒子が、他の微粒子たちに対してその繰り返しをなすように働き掛ける、そうした運動や静止である。それ故、その運動や静止はそれらの微粒子群の運動や静止によって、その繰り返しが支えられる必要がない。この点、それは4.の記号系の発生と同様である。しかし、記号系は諸部分の依存関係に基づく構成体である。その全体の運動や静止の繰り返しは、その諸部分の運動や静止が互いに相手の繰り返しを支えることで可能になる。一方、この反復する運動や静止をなす微粒子群は、その全体がそうした相互依存的諸部分から構成されているわけではいない。その微粒子群の特徴は、それが微粒子しか構成要素を持たないということである。この点、それは最単純物体と同様である。なるほど、最単純物体の運動や静止が実体の無限の広がりにおいて反復するのに対して、こちらの微粒子群の運動や静止は私たちの有限な広がりにおいて反復する。従って、最単純物体とは異なり、その微粒子群は私たちが存在しなければ存在しない。しかし、その微粒子群が微粒子以外に構成要素を持たない以上、それと平行する感覚が諸感覚から構成されることもない。それ故、その感覚は言わば「最単純なもの」となるのだ。
例えば、既に繰り返されている感覚が旋律である場合、私たちはその音の流れを音楽体系における切断関係に従って、様々なピッチやリズムに分割することが出来る。それ故、私たちはその分割線に沿って、その音の流れを切断することも出来る。しかし、実際に切断することは、単に分割することとは異なる。なぜならば、音の流れを切断することによって与えられる内包量は、音楽体系において既に繰り返されている感覚の内包量と異なるからである。実際の音をあるピッチにともなう分割線に沿って切断すると、その切断された感覚の内包量はそのピッチだけないことがただちに感じられるはずである。あの風の音は確かにAの音程だ。しかし、それを音程Aとして切断した瞬間から、その音がそれとは異なる内包量を持っているのが感じられる。その内包量の多くは、私たちの精神がそれを捉えるや否や、その値が「=0」になってしまう。なぜならば、それらはその感覚と平行する微粒子群の相互作用域における、繰り返されることもなければ、反復することもない運動や静止の活発さの程度だからである。しかし、その相互作用域における運動や静止の中にも、反復するものや繰り返されるものがないわけではない。このことは、実際の音をあるリズムにともなう分割線に沿って切断するときも同様である。また、その運動や静止が反復するにせよ、繰り返されるにせよ、私たちはそれらの微粒子群と平行する感覚を切断し、それらの内包量と外延量を連結関係や切断関係に置くことによって、それらの微粒子群どうしを互いに相手の相互作用域に置くことが出来る。そして、それらの微粒子群どうしの出会いから、ある微粒子たちの運動や静止が反復することもあるのだ。そうした運動や静止を生起させるために内包量と外延量の連結関係や切断関係を創出すること、それが音楽における創造である。
ところで、その反復する運動や静止が生起した後も、既に反復している感覚や既に繰り返されている感覚と平行する微粒子群の運動や静止はその反復や繰り返しを続けている。従って、それらの微粒子群と平行する感覚の多は、相変わらずそれらの感覚から構成されている。それ故、それらの相互作用から反復する運動や静止が生起するとき、私たちの精神はその諸感覚の構成体とともに、それとは異なる最単純な感覚を思考することになる。その最単純な感覚にともなう情動が「美しさ」である。注意してほしい。諸感覚の構成体が与えられるとき、私たちがそこで美しさを感じるとしても、それはその構成体自体に美しさを感じているのではない。そうではなくて、その反復する運動や静止をなす微粒子群と平行する感覚に美しさを感じるのだ。それ故、その美的感覚はその諸感覚の構成体と重なり合っている。そして、私たちの精神はその構成体全体に美しさを重ね合わせるばかりでなく、その諸部分に関してもまた美しさを重ね合わせる。なぜならば、その構成体と平行する微粒子群が複数の相互依存的な諸部分からなるのに対して、その美的感覚と平行する微粒子群はそうした部分を持たないからである。前者の微粒子群を諸部分に分割したとしても、後者の微粒子群が分割されるわけではない。それ故、後者の運動や静止が反復し続ける限り、前者をどれだけ分割したとしても、その美しさが失われることはない。
音楽の美しさは楽音そのものや楽曲そのものに感じられるのではない。どのような音であれ、音楽体系における連結関係や切断関係に従っているのならば、その音の構成体は音楽である。しかし、美しい音楽は単なる音楽とは異なり、その楽音や楽曲だけからなるのではない。美しい楽曲を構成する楽音は、その楽音の微粒子群でも、その楽曲の微粒子群でもない、第三の微粒子群と平行する感覚を帯びている。そして、その感覚そのものは、楽音のように「高さ」「強さ」「音色」「長さ」に分割することが出来ない。なぜならば、その第三の微粒子群は楽音や楽曲の微粒子群と異なり、微粒子以外のいかなる構成要素も持たないからである。音楽だけではない。美しいものはすべて、いかなる部分にも分割することの出来ない、そうした最単純な感覚を帯びている。
6. 微粒子群どうしの相互作用によって生じた運動や静止が繰り返されるとともに、それらの微粒子群の運動や静止が繰り返されなくなる:
     
微粒子群どうしの相互作用がその繰り返される運動や静止を生起させるとともに、それらの微粒子群の運動や静止の反復や繰り返しを不可能にすることがある。このとき、新しい感覚の多が繰り返されるようになるとともに、既存の諸感覚が繰り返されなくなる。この感覚の消滅には、それらの微粒子群と平行する感覚の一つだけが繰り返されなくなる場合から、それらの感覚のすべてが繰り返されなくなる場合まで、様々な程度がある。
ところで、5.で新しく生起した運動や静止は必ずしも個体間で反復しない。このとき、その感覚の美しさはそれを思考する個体だけに感じられるものである。また、4.で新しく生起した運動や静止は必ずしも個体間で繰り返されない。このとき、その感覚の多はそれを思考する個体においてのみ繰り返されるものであり、従って、それは記号の必須要件の一つ(その繰り返しが複数の個体間に広がっていること)を満たしていない。同じく、6.で新しく生起した運動や静止も、個体間で繰り返されるとは限らない。このとき、その感覚の多も記号ではない。
私たちは美的創造を狙い、既存の記号系のもたらす分割線に沿って、私たちの世界に切断を導入し、内包量と外延量の連結関係や切断関係を創出する。しかし、その試みは5.の運動や静止のように成功するとは限らず、1.の運動や静止のように、既存の記号系に従っているだけで何も起こらないこともあれば(このとき、たくさんの繰り返されない感覚は生成しているのであるが)、2.の運動や静止のように、既存の記号系が消滅してしまうこともある。あるいは、3.の運動や静止のように、既存の記号系を発展させることもあれば、4.の運動や静止のように、新しい記号系が生成することもある。あるいは、6.の運動や静止のように、新しい記号系が生成するとともに既存の記号系が消滅してしまうこともある。
例えば、私たちが音楽における美的創造を狙い、既存の記号系である旋法体系のもたらす分割線に沿って、楽音を切断しているとする。各旋法に沿って切断される実際の音は、私たちの精神に「高さ」以外の様々な内包量を与える。そして、私たちはそれらの感覚と平行する微粒子群どうしを出会わせるために、それらの感覚を切断し、それらの内包量と外延量を様々な連結関係や切断関係に置いてみる。しかし、その音の構成体は既存の旋法体系に従うだけの、退屈な楽曲になってしまうかも知れない。あるいは、その切断された感覚がそっくり消滅してしまい、もはやその内包量と外延量を連結関係や切断関係に置くことが出来なくなってしまうかも知れない。あるいは、私たちは新しい旋法を開発するなどして、既存の旋法体系を発展させるかも知れない。あるいは、こうした試みを通じて、旋法体系とは異なる記号系である調性体系が生成するかも知れない。あるいは、旋法体系が消滅してしまい、もはやそれについての形骸化した知識しか残らないかも知れない。
旋法体系とともに調性体系が思考される場合、私たちは同じ旋律を二つの異なる記号として同時に理解する。例えば、イオニア教会旋法の旋律はまたハ長調の旋律であり、エオリア教会旋法の旋律はまたイ短調の旋律である注13。しかし、私たちの精神において、「イオニア」として繰り返される感覚と「ハ長調」として繰り返される感覚は異なったものである。なぜならば、「イオニア」は「ヒポイオニア」「ドリア」「フリギア」「リディア」など、他の教会旋法との連結・切断関係において理解されるのに対して、「ハ長調」は「ハ短調」「イ短調」「ホ長調」「ト長調」など、他の調との連結・切断関係において理解されるからである。それは単なる知識としての理解ではなく、どちらで理解するのかに応じて、実際の楽音の響きが変わるのだ。従って、私たちがそれらの体系を同時に理解するのならば、その異なる響きを同時に聴くことが出来るわけである。一方、調性体系が生成するとともに旋法体系が消滅する場合、私たちはある旋律を何らかの旋法として聴くことが出来なくなる。例えば、ハ長調の旋律を聴いても、私たちはもはやそれをイオニア教会旋法の旋律として聴くことが出来ない。また、ドリア、フリギア、リディア、ミクソリディアなど、他の教会旋法の旋律を聴いても、私たちはそれらの響きを何らかの調としてしか聴くことが出来ない。
7. 微粒子群どうしの相互作用によって生じた運動や静止が反復するとともに、それらの微粒子群の運動や静止が繰り返されなくなる:
    
微粒子群どうしの相互作用がその反復する運動や静止を生起させるとともに、それらの微粒子群の運動や静止の反復や繰り返しを不可能にすることがある。このとき、美的感覚が生成するとともに、既存の諸感覚が繰り返されなくなる。この感覚の消滅には、それらの微粒子群と平行する感覚の一つだけが繰り返されなくなる場合から、それらの感覚のすべてが繰り返されなくなる場合まで、様々な程度がある。
従って、5.の運動や静止とは異なり、この美的創造においては記号系の存在しないことがある。そのとき、私たちはその感覚を音楽とも、絵とも、彫刻とも理解することが出来ない。なぜならば、一般に「芸術」と呼ばれるものは、それぞれに固有の感覚の分節化を可能にする、内包量と外延量の連結関係や切断関係を持っているからである。それ故、音楽には「楽音」という構成要素があり、絵には色と形からなる平面要素があり、彫刻には形とヴォリュームからなる立体要素がある。舞踏、詩や物語、演劇、映画その他の芸術も同様である。それはつまり、それぞれの芸術が美的感覚だけからなるのではなく、それぞれに固有の記号系を持つということである。
一方、そうした記号系が存在しない場合、私たちの有限な広がりの部分が、諸感覚の構成体をともなうことなく、そのまま美的感覚の宿るところとなる。その美的感覚が宿る以前、その広がりには楽音や平面要素や立体要素などが宿っていたはずである。なぜならば、その感覚と平行する微粒子群の運動や静止は、何らかの内包量と外延量の連結関係や切断関係のもたらす、微粒子群どうしの相互作用から生起したものだからである。そして、その内包量や外延量が連結関係や切断関係をなすところの感覚は、既存の記号系のもたらす分割線に沿って諸感覚を切断した際に生成するものであり、また、私たちが美的創造を狙うとき、もっとも自由に活用することの出来る記号系は芸術のそれだからである。その美的感覚の生成以後、それらの要素はすべて消滅する。つまり、かつてその広がりに宿っていたものが楽音だったとしても、私たちはそこにもはや楽音を認めることが出来ない。かつてその広がりに宿っていたものが平面要素だったとしても、私たちはそこにもはや平面要素を認めることが出来ない。あるいは、かつてその広がりに宿っていたものが立体要素だったとしても、私たちはそこにもはや立体要素を認めることが出来ない等々。こうした忘却は、調性以後、旋法の響きが聴こえなくなるのと同様である。私たちの精神はもはやそれらの要素を思考することが出来ない。私たちに出来ることは、そうした要素を一切持たない、最単純な感覚を思考することだけである。従って、そのとき、私たちの精神は最も純粋な美しさを感じることになる。




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