微粒子の感覚学 § 1

 
無限の、連続する広がりの極限として、限りなく小さな、永遠の広がりがある。その広がりを私たちは「微粒子」と呼ぶ。従って、微粒子は連続する、無限の広がりをその近傍としている。無限の、連続する広がりには、そのような無数の微粒子が互いに距離を持って存在し、運動している。それ故、微粒子たちの運動の第一の特徴は、それらが互いに永遠に近づき合うか、永遠に遠ざかり合うということである。なぜならば、いずれの微粒子も限りなく小さな広がりであり、かつ、いずれの微粒子の近傍も連続する、無限の広がりであるため、微粒子どうしはどこまでも近づくことが可能であり、また、どこまでも遠ざかることが可能だからである。ところで、思考属性とは異なり、延長属性には次の特徴がある。即ち、延長するもの(広がり)には空虚がなく、また、ある広がりを別の広がりが占めることは出来ない。それ故、ある微粒子が移動すると、その広がりを別の微粒子が満たす。無数の微粒子が運動し、互いに相手の場所を満たし合っている。こうして、微粒子どうしは無限に相互作用している。また、微粒子たちの運動も、それらが互いに近づき合うか、遠ざかり合うというだけではない。運動する微粒子たちの速さと方向が同じものになるのならば、それらの微粒子は互いに静止していることになる。そして、その無限の相互作用から、一群の微粒子どうしが単に近づき合うのでもなく、単に遠ざかり合うのでもなく、単に静止しているのでもないとき、その微粒子群の運動や静止は微粒子の運動の第一特徴や静止からの偏差(注1)をなす。無限の、連続する広がりでは絶えず、至る所で、こうした偏差が生じている。そして、それらの偏差の中から、その微粒子群の運動や静止が繰り返されるものや、その繰り返しからの偏差を巻き込んで反復するものが生じる。
無限の、連続する広がりに微粒子たちの運動や静止の偏差が生じるとき、その微粒子群の占める広がりが延長の有限様態である。もしも延長の有限様態が生成していなかったのならば、即ち、延長の無限様態(無限の、連続する広がり)と極限様態(微粒子)しか存在していなかったのならば、広がりを分割することは不可能だった。従って、そこには部分と全体の包含関係や構成関係もあり得なかった。延長の有限様態が生成するとき、それと平行する思考の有限様態が出来事の観念である。しかし、その微粒子群の運動や静止が繰り返されるか反復しない限り、その観念は現れた途端に消えてしまう。一方、その微粒子群の運動や静止が繰り返されるか反復するとき、その微粒子群は他の運動や静止をなす微粒子たちとの相互作用域を持つことになる。その相互作用によって、その繰り返しからの様々な偏差が生じる。繰り返しの場合、そうした偏差によって、その繰り返しが減衰してゆく。反復の場合、そうした偏差こそがその繰り返しを支える。なるほど、それらのすべてがその繰り返しを支えるわけではない。しかし、一群の微粒子の運動や静止が自らの繰り返しを支えるのに十分なだけの偏差を持つとき、その運動や静止は反復する。そして、一度反復し始めると、その運動や静止との相互作用から生じる様々な偏差の、少なくともその一部をなす微粒子たちが、自らと相互作用する微粒子たちに対して、その微粒子群の運動や静止をなすように働き掛ける。故に、その微粒子群はそれらの偏差の相互作用域に存在する微粒子たちを、自らの運動や静止へと巻き込んでゆくことになる。ところで、ある延長の有限様態にとって、より多くの微粒子たちがその運動や静止をなすようになることはその活動力の増大であり、逆に、より少ない微粒子たちがその運動や静止をなすようになることはその活動力の減少である。従って、ある微粒子群の運動や静止が反復するとき、その延長の有限様態は自らの活動力の増大を目指し、その減少を回避しようとする傾向を持つ。私たちはそうした傾向を持つ延長の有限様態を「物体」と呼ぶ。
延長の有限様態は微粒子どうしの無限の相互作用によって生成し消滅する。この点、その運動や静止が繰り返されない微粒子群も、それらが繰り返される微粒子群も、それらが反復する微粒子群も変わりはない。ところで、無限の広がりには様々な偏差が生じている。微粒子群の運動や静止が繰り返されない場合、その出来事の観念は自らの偏差以外の諸偏差と平行することが出来ない。なぜならば、それらと平行するのならば、それは既にその出来事の観念ではないからである。また、その運動や静止が繰り返されるとしても、その出来事の観念はその繰り返される運動や静止以外の諸偏差と平行することが出来ない。なぜならば、その繰り返される運動や静止は、それが無限の相互作用から一度生起すると、それ以外の運動や静止に対して自らを閉じてしまうからである。確かに、その運動や静止をなすべく供給される微粒子は既存の微粒子群におけるものとは限らない。外部の微粒子たちもその供給源となっている。しかし、この外部からの供給は、その繰り返される運動や静止以外の運動や静止をなす微粒子が、その繰り返される運動や静止をなすようになるということでしかない。一方、微粒子群の運動や静止が反復するとき、その繰り返しからの偏差こそがその運動や静止の繰り返しを支えている。逆に、そうした偏差がなくなれば、その運動や静止も繰り返されることが不可能になる。
私たちはそうした物体と平行する思考の有限様態を「精神」と呼ぶ。精神の思考は他の出来事の観念とは異なり、その繰り返される運動や静止ばかりでなく、その繰り返しからの偏差をなす運動や静止とも平行する。そして、精神はそれらの運動や静止を受動する。私たちはその受動的な思考の有限様態を「情動」と呼ぶ。精神の受動する微粒子たちの運動や静止が運動の第一特徴や静止でしかないとき、その情動の強さは「=0」でしかない。情動が「=0」以外の値を採るためには、精神の受動する微粒子たちの運動や静止がそれらからの偏差をなしていなければならない。しかし、たとえその運動や静止が偏差をなすものであるとしても、それが繰り返されない場合、たちまち別の運動や静止に変化してしまう。そのため、次の瞬間、その情動の強さは「=0」になる。しかし、このとき、精神はその別の運動や静止を別の情動として感じる。それ故、ある精神の受動する偏差がすべて繰り返されない運動や静止であるとしても、その精神が情動そのものを感じなくなることはない。最も単純な物体ですら、その精神と平行する広がりには様々な偏差が生じている。従って、精神の繰り広げられる世界は多種多様な情動の世界となる。
一方、精神はそれらの偏差をなす運動や静止ばかりでなく、その物体において繰り返される運動や静止もまた受動する。より多くの微粒子がその運動や静止に巻き込まれるとき、その精神の感じる情動を私たちは「喜び」と呼ぶ。逆に、より少ない微粒子がその運動や静止に巻き込まれるとき、私たちはその精神の感じる情動を「悲しみ」と呼ぶ。反復する運動や静止をなす微粒子群は、様々な偏差からの働き掛けによって、その運動や静止に巻き込まれる微粒子の数を絶えず増減させている。その微粒子の出入りが平衡状態になっているとき、精神は喜びも悲しみも感じない。即ち、それらの情動の強さは「=0」である。その微粒子の数が増加傾向を持つとき、精神は喜びを感じ、逆に、それが減少傾向を持つとき、精神は悲しみを感じる。そして、その増加傾向や減少傾向の程度が大きければ大きいほど、それだけその情動は強くなり、逆に、その程度が小さなければ小さいほど、それだけその情動は弱くなる。ところで、物体には活動力の増大を目指し、その減少を回避しようとする傾向がある。そして、より多くの微粒子がその運動や静止をなすようになることは、その物体の活動力の増大であり、逆に、より少ない微粒子がその運動や静止をなすようになることは、その物体の活動力の減少である。従って、精神には喜びを求め、悲しみを避けようとする傾向がある。このことはその微粒子の出入りが平衡状態にあるとしても、増加傾向にあるとしても、あるいは、減少傾向にあるとしても変わらない。そして、精神がその増加傾向を喜びと感じ、その減少傾向を悲しみと感じたように、この喜びを求め、悲しみを避けようとする傾向もまた、それらとは異なる情動として感じられる。その精神の感じる情動を私たちは「欲望」と呼ぶ。
私たちは精神と物体を合わせた存在を「個体」と呼ぶ。どのような個体も、自らの情動世界を自らの欲望に則して構成している。ある偏差に関して、その運動や静止をなす微粒子の数が増加傾向にあるとき、精神はその広がりの情動が強くなるのを感じる。逆に、それが減少傾向にあるとき、精神はその広がりの情動が弱くなるのを感じる。そして、それが平衡状態にあるとき、精神にとってその情動の強さは変わらない。しかし、偏差の情動はそうしたものとしてあるだけではない。その情動の強さが増そうと、減ろうと、変わらなかろうと、その偏差をなす運動や静止が個体の活動力を増大させるのならば、その情動は喜びのヴァリエーションとして感じられる。逆に、その運動や静止が個体の活動力を減少させるのならば、その情動は悲しみのヴァリエーションとして感じられる。そして、その運動や静止が個体の活動力を増大させるか、減少させると感じられるのならば、その個体はそれを求めるか、避けようとする。あるいは、その運動や静止をなす微粒子の数が増加傾向にあるとき、個体がその活動力を増大させると感じるのならば、その個体はその情動が強くなることを求め、弱くなることを避けようとする。あるいは、その数が減少傾向にあるとき、個体がその活動力を増大させると感じるのならば、その個体はその情動が弱くなることを求め、強くなることを避けようとする。あるいは、その数が増加傾向にあるとき、個体がその活動力を減少させると感じるのならば、その個体はその情動が弱くなることを求め、強くなることを避けようとする。あるいは、その数が減少傾向にあるとき、個体がその活動力を減少させると感じるのならば、その個体はその情動が強くなることを求め、弱くなることを避けようとする。そのとき、精神の感じる情動は欲望のヴァリエーションとなる。そして、その欲望と平行する運動や静止をなす微粒子の数が増加傾向にあるのならば、精神はその欲望が強くなるのを感じ、逆に、その数が減少傾向にあるのならば、精神はその欲望が弱くなるのを感じる。
情動は個体の連続する広がりのどこかに宿っている。ある延長の有限様態は他の延長の有限様態の広がりを占めることが出来ない。それに対して、情動は思考の有限様態であるため、複数の情動が同じ広がりに宿ることが出来る。しかし、たとえ同じ広がりに宿っているとしても、それらの情動は互いに区別することが可能である。なるほど、個体の情動世界はその欲望に則って構成されているため、そうした区別が曖昧になっているかも知れない。しかし、そのことはそれらの情動がそもそも混ざり合っていることを意味しない。そうではなくて、そもそも区別されている情動が、その欲望の構成によって混ぜ合わされていると考えるべきである。逆に、広がりは区別することが出来ない。例えば、コップのある場所を考えてみよう。私たちは「コップ」の様々な情動(透明さ、硬さ、冷たさなど)によって、その物体の存在する場所をそうでない場所から区別している。しかし、その境界においては、コップを構成する諸物体が運動し続けている。従って、それらの場所を厳密に区別することなど不可能である。あるいは、私たちがいつから禿頭になるのか考えてみよう。「禿頭」の様々な情動(毛の少なさや細さ、地肌の異様な白さなど)によって、私たちは禿頭をそれ以外の頭の状態から区別している。私たちがかつて禿頭でなかったとすれば、「禿頭になった瞬間」というものがあるはずである。しかし、その「瞬間」を確定することは出来ない。私たちは未だ禿げていないか、既に禿げているかのいずかでしかない。従って、禿頭のときをそうでないときから厳密に区別することなど不可能である。あるいは、運動する物体の速さや方向について考えてみよう。その速さや方向が変化するとき、どんなに急激であろうと、どんなに緩慢であろうと、その変化は連続的である。その速さや方向は未だ変化していないか、既に変化しているかのいずれかでしかない。従って、ある瞬間の速さを次の瞬間の速さから区別することも、また、ある瞬間の方向を次ぎの瞬間の方向から区別することも、厳密には不可能である。こうしたことはすべて、延長属性が連続的であることに由来する。情動が区別的であり、非連続的であるのに対して、広がりは連続的であり、非区別的である。
一つの広がりに複数の情動が宿るのは、その広がりを占めている微粒子たちが複数の異なる偏差の全体や一部をなしているからである。今、微粒子群Aが微粒子群Bとともに偏差1をなし、同じAが微粒子群Cとともに偏差2をなし、また、微粒子群Dとも偏差3をなしているとする。このとき、Aの広がりは三つの情動の宿るところとなる。ところで、(A+B)の広がり、(A+C)の広がり、(A+D)の広がりは、Aの部分で重なり合いながら、全体としては別の広がりとなっている。それ故、私たちはそれぞれの広がりに宿る情動によって、私たちの情動世界からその広がりを切断することが出来る。例えば、(A+B)の広がりに宿る情動が「色彩」と呼ばれるものであり、(A+C)の広がりに宿る情動が「形象」と呼ばれるものであり、(A+D)の広がりに宿る情動が「匂い」と呼ばれるものであるとしよう。そして、それらの情動が私たちの欲望に構成されて「花」と呼ばれるものになっているとしょう。私たちは自らの鼻をその花に埋めてみたい。私たちはこの欲望に導かれて活動し、その花を味わい喜びに満たされる。その花を欲望し活動するとき、私たちにはその「色彩」の広がりも、その「形象」の広がりも、その「匂い」の広がりも、私たちの情動世界から切断することが出来ない。なぜならば、それらの広がりはその「花」の広がりの中で連続しているからである。しかし、だからと言って、私たちの精神がそれらの情動を区別していないわけではない。欲望を感じるときも、喜びを感じるときも、私たちの精神はそれらの情動を区別している。そうでなければ、私たちの欲望がその「花」を構成することはなかった。故に、その花を欲望し活動する私たちには、その「色彩」の情動によって(A+B)の広がりを切断し、その「形象」の情動によって(A+C)の広がりを切断し、その「匂い」の情動によって(A+D)の広がりを切断することが出来る。なるほど、それらの広がりが切断されるとき、その「花」というものは失われてしまう。しかし、個体の広がりに切断を導入することは、そこに宿る様々な情動をその欲望の構成から解放することでもあるのだ。
切断された広がりに宿る情動を、私たちは「内包量」と呼ぶ。なぜならば、それはその広がりの内に包み込まれたものであり、かつ、それには「0」以上の程度があるからである。そして、切断された広がりにはもうひとつの特徴がある。私たちはそれを「外延量」と呼ぶ。なぜならば、それはその広がりにおいて外に延長しているものであり、かつ、それには「0」以上の程度があるからである。外延量には例えば、大きさ、速さ、方向などがある。内包量と外延量はその広がりにおける微粒子たちの運動や静止をそれぞれ思考属性と延長属性において捉えたものである。その微粒子たちの運動や静止の特徴が、その広がりの内包量の質を決定し、その運動や静止をなす微粒子の数がその量を決定する。その数が増加すればその内包量は大きくなり、逆に、その数が減少すればその内包量は小さくなる。そして、その微粒子たちの運動や静止がその特徴を変化させれば、その内包量は「=0」になる。一方、その運動や静止をなす微粒子群の部分がその全体の中で占める大きさの割合がある。それは連続的に変化し、その割合が増えればその外延量は大きくなり、逆に、その割合が減ればその外延量は小さくなる。そして、その微粒子たちの運動や静止がその特徴を変化させれば、その外延量は「=0」になる。また、その微粒子群の部分がその全体の広がりを移動するとき、その部分がその全体に対して相対的な速さを持つ。それは連続的に変化し、その速さが増せばその外延量は大きくなり、その速さが減ればその外延量は小さくなる。そして、その微粒子たちの運動や静止がその特徴を変化させれば、その外延量は「=0」になる。同じく、その場合、その部分がその全体に対して相対的な方向を持つ。確かに、その外延量は大きさや速さと異なり、大きくなることもなれば、小さくなることもない。しかし、その微粒子たちの運動や静止がその特徴を変化させれば、その外延量もまた「=0」になる。この点では、内包量と外延量も違いがない。
こうして、私たちは切断された広がりに固有の内包量と外延量を持つ。そして、それらが私たちを技術、記号、美へと導くことになる。 



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