微粒子の感覚学 § 2


 アンドレ・ルロワ=グーランによれば、アウストラロピテクス(即ち「南のサル」。彼はこれを正当にもアウストララントロプス、即ち「南のヒト」と呼ぶのであるが)によるものと思われる最初の石器は、手ごろな石塊の側面に別の石塊を直角に打ち当てるという打撃によって作製された(注2)。この打撃によってその石塊から破片がはがれ、鋭い刃を持つようになる。そして、その打撃を適切に何回か加えると刃渡りはより長くなり、また、一つの側面からではなく二つの側面から打撃を加えると簡単な「両面石器」になる。自然の石塊は様々な内包量と外延量を持ち、風化によって破壊されてそれらを変化させる。あるいは、ひとがそれを使って胡桃などをかち割るうちに、偶然破壊されてその内包量と外延量を変える。しかし、手ごろな「大きさ」の石塊に、適切な「速さ」や「方向」を持つ打撃を意図的に加えて、その内包量と外延量を変化させるということは、単なる風化や破壊とは異なる活動である。「刃」を持つ石核とそれを持たない石塊は異なる内包量と外延量を持つ。また、その刃が「より鋭く」なることや、一つの「面」ではなく二つの「面」をなすことも、それぞれ異なった内包量と外延量を持つ。石器製作者は石塊に「垂直方向」の一撃を加えて、自然石の様々な内包量と外延量から「刃」の内包量と外延量へのシークエンスをなす。あるいは、その打撃を何度か加えて、「刃」の内包量と外延量から「より鋭い」刃の内包量と外延量へのシークエンスをなす。あるいは、一つの「面」の内包量と外延量から二つの「面」の内包量と外延量へのシークエンスをなす。いずれにせよ、この石器製作者はある内包量と外延量へ向けて、複数の内包量と外延量のシークエンスをなすわけである。








 石器製作の話を続けよう。ルロワ=グーランは、アウストララントロプスから原人への生物学的な進化は石器製作の技術的な進化に平行するとみている。今や、「垂直方向」、即ち「法線方向」の打撃ばかりでなく、「接線方向」の打撃がこれに加わる(注3)。この打撃はそのままで剃刀のように使える剥片を生じさせ、また石核に関しては、両面石器をより精巧にすることと「握斧」という新しい石器を可能にする。石器製作者は適切な「速さ」の「法線方向」と「接線方向」の打撃を何度か加えて、「刃」や「面」の内包量と外延量からより精巧な両面石器の様々な内包量と外延量へのシークエンスをなす。あるいは、「刃」や「面」の内包量と外延量から握斧の様々な内包量と外延量へのシークエンスをなす。そして、いずれの作製においても、その「接線方向」の打撃から生じる剥片石器の様々な内包量と外延量が副次的にもたらされる。





次に、原人から旧人への生物学的な進化は石器製作の更なる技術的な進化と平行することになる。取り分け、中期石器時代のルヴァロワジアン=ムステリアン期に、石器製作は石核から剥片へとその重点を移動させる(注4)。原人の段階で既に、「接線方向」の打撃によって石核からそのままで使える剥片を生じさせることが可能になった。しかし、このことは副次的な産物に過ぎず、製作の重点は相変わらず石核にあった。一方、この旧人の段階では、石核石器の製作に加えて、石核を源として剥片石器を作製するという技術的な大転回が起こる。「法線方向」と「接線方向」の打撃を巧みに調整することで、源としての石核から次々と剥片石器が生み出され、この作製は石核そのものがなくなるまで続く。更に、この製作は高度な計画性をもって進められ、例えば、先ず不均斉な両面石器が源として作られ、その石核からルヴァロワジアン型剥片やブレイド・フレークが切り出され、そのブレイド・フレークの切り出された石核から長短二種のルヴァロワジアン型尖頭器が切り出される。また更に、石核石器には両面石器と握斧の二種類しかないのに対して、剥片石器にはルヴァロワジアン型剥片、ブレイド・フレーク、ルヴァロワジアン型その他の尖頭器、掻器、小掻器、小刀、切込みのある石器などがあり、ここで石器の種類が飛躍的に増加する。この周到な石器製作者は自然石の様々な内包量と外延量から石核の様々な内包量と外延量へ、それらから剥片やブレイド・フレークの様々な内包量と外延量へ、また、ブレイド・フレークを切り出された石核の様々な内包量と外延量から「短い」尖頭器の内包量と外延量へ、更に、その尖頭器の切り出された石核の様々な内包量と外延量から「長い」尖頭器の内包量と外延量へのシークエンスをなすわけである。








 一方の石で他方の石を打撃すること、ここにすべての端緒がある。しかし、その身振りと、例えば石で胡桃を打撃するという身振りとの違いは実に微妙なものである。石で何かを叩くことが繰り返されている間、石で石を打撃することはその繰り返しからの偏差に過ぎない。あるとき、誰かがその身振りと平行して、手ごろな「大きさ」の石塊どうしを適切な「速さ」でぶつけ合わせることによってもたらされる、自然石から「刃」を持つ石核への内包量と外延量のシークエンスを思考する。その思考は石で何かを叩くという身振りがその偏差を巻き込んで反復することをもたらす。そして、石で石を打撃する身振りが繰り返されている間、ある仕方での加撃が石核に「より鋭い」刃をもたらすことがあるとしても、それはその繰り返しからの偏差に過ぎない。あるとき、誰かがその身振りと平行して、「より鋭い」刃の内包量と外延量を組み込んだシークエンスを思考する。その思考は石で石を打撃するという身振りがその偏差を巻き込んで反復することをもたらす。そして、石核に「より鋭い」刃をもたらす加撃が繰り返されている間、別の加撃が石核の刃を二つの「面」にすることがあるとしても、それはその繰り返しからの偏差に過ぎない。あるとき、誰かがその身振りと平行して、二つの「面」の内包量と外延量を組み込んだシークエンスを思考する。その思考は石核に「より鋭い」刃をもたらす加撃がその偏差を巻き込んで反復することをもたらす。
さて、以上の身振りはすべて石塊の面に対して「法線方向」の打撃である。その打撃が繰り返されている間、「接線方向」の打撃はその繰り返しからの偏差に過ぎない。あるとき、誰かがその身振りと平行して、より精巧な両面石器や握斧や剥片石器の様々な内包量と外延量を組み込んだシークエンスを思考する。その思考はその「法線方向」の打撃がその「接線方向」の打撃を巻き込んで反復することをもたらす。ところで、これらの石器作製法はいずれも石核に重点をおいた技術であり、たとえ「接線方向」の打撃によって剥片石器が作られるとしても、それはそうした技術の副産物に過ぎない。あるとき、誰かが石核から複数の剥片石器を計画的に切り出すために、そのような内包量と外延量のシークエンスを思考する。なるほど、それはその「法線方向」と「接線方向」の打撃がある偏差を巻き込んで反復することに変わりはない。しかし、その偏差はもはや身振りの微妙な違いですらない。それは石器製作の重点を石核から剥片へと移動させる思考の偏差である。
新しい石器の作製技術が発生することは、既存の身振りがその繰り返しからの偏差を巻き込んで反復することである。しかし、新しい技術が発生したというだけでは既存の技術を革新したことにはならない。なぜならば、その新しい技術は誰にも模倣されることなく、そのまま失われてしまうことがあるからである。従って、技術革新には次の二つの契機がある。第一の契機は新しい技術の発生であり、それは身振りの反復である。第二の契機はその技術の模倣であり、それは身振りの繰り返しである。ある身振りが反復し、その身振りが繰り返されること、それが技術革新である。従って、石器製作の技術革新は、石で石を打撃する身振りが反復するばかりでなく、その身振りが繰り返されることから始まる。しかし、それでは、その身振りの反復とその身振りの繰り返しとはどのように違うのだろうか。前者が一回目の繰り返しで、後者が二回目以降の繰り返しである、というだけの違いなのだろうか。それとも、何か別の違いがあるのだろうか。
石で石を打撃することが反復する以前、その身振りが繰り返されることはなく、それは石で何かを叩くことの偏差でしかなかった。従って、その打撃の内包量も、その「速さ」や「方向」という外延量も、「刃」の内包量と外延量も、その値が生じた途端に「=0」になってしまうものであった。人類はいまだ「刃」というものを知らないのであり、当然のことながら、それがどのような打撃によってもたらされるのか考えてみることすら出来ないはずである。その身振りが反復して初めて、それらの内包量と外延量が「=0」以外の、それに固有の値をなす。そして、それ以降、石材を打撃するその運動や静止、及び、打撃されるその石材の運動や静止が、互いに相手の繰り返しを支え合えるようになる。即ち、あの手の石を、あの手の石で、あのように打撃すれば、あのような「刃」が出来るというわけである。繰り返しどうしの支え合いによる繰り返しは反復ではない。反復というものは、繰り返されなかった偏差が繰り返されるようになるその生成にある。そして、もしもその生成が反復するのならば、それは繰り返しではなく反復である。この場合、石塊を打撃するその運動や静止、及び、打撃されるその石塊の運動や静止が、互いに相手の繰り返しを支え合っていないにも関わらず、それらの内包量と外延量が「=0」以外の、それに固有の値をなす。即ち、あの手ではなくこの手の石を、あの手ではなくこの手の石で、あのようにではなくこのように打撃したら、あのような「刃」ではなくこのような何かになったというわけである。この「何かになる」を何も起きないことや何にもならないことと混同してはならない。それは何かになるのだが、その「何か」はあのような「刃」以外のものである。そして、それらの内包量と外延量は、それ以降、それらの運動や静止が互いに相手の繰り返しを支え合えるようにするものである。
しかし、反復する身振りは必ずしも繰り返されない。石材を打撃するその運動や静止、及び、打撃されるその石材の運動や静止が、互いに相手の繰り返しを支え合えるようになったからと言って、それは可能性に過ぎず、現実にその身振りが繰り返されるようになるとは限らない。その身振りが繰り返されるかどうかは、それがどのような社会において反復したのかによる。なぜならば、技術の身振りは個体においてではなく、社会においてなされるものだからである。
社会を構成するものは人間ばかりではない。例えば、狩猟採集社会は狩猟採集民だけから構成されているわけではない。採集される植物や狩猟される動物は勿論のこと、彼らの生きる大地、住居その他の建造物、生業や生活に必要な道具、呪具、部落どうしで交換される威信財、戦争のための武器などもまたその構成要素である。同じく、農耕社会は農耕民だけから構成されているわけではない。栽培される植物は勿論のこと、彼らが耕作する土地、建造物、食料や生業に供される家畜、道具、祭具、威信財、武器などもまたその構成要素である。牧畜社会、遊牧社会、都市社会、国家等、いずれの社会も、人々ばかりでなく、様々な生物や無生物、有機物や無機物をその構成要素としている。そして、それらの物体ばかりでなく、それらの間で繰り返される出来事もまたその構成要素である。例えば、狩猟採集社会において、主に狩猟を担当する男性たちのグループは何らかの物体というわけではなく、彼らと狩猟道具の間で繰り返される出来事のことである。同じく、主に採集を担当する女性たちのグループも、彼女たちと採集道具の間で繰り返される出来事のことである。それらの出来事がその狩猟採集社会の一部を構成している。そして、それらの物体や出来事を構成要素とする社会は、その延長的な構成体と平行する思考的な構成関係を持っている。その思考的な構成関係を私たちは「記号系」と呼ぶ。
ところで、農耕社会を構成する稲や麦はその実を容易に落さなかったであろう。それ故、穂を切り取るための道具があれば、それらの採集は大変効率的になる。この場合、誰かがそのための石器(石包丁)を作製するのならば、その身振りはその社会において繰り返されることになる。一方、狩猟採集社会を構成する原‐稲や原‐麦はその実を容易に落したであろう。この場合、誰かがそのような石器を作製したとしても、その身振りがその社会において繰り返されることはない。なぜならば、そこで必要とされる道具は穂を叩く棒や落ちた実を集める籠のようなものであり、穂を切り取るための道具など何の役にも立たないからである。
しかし、ここで私たちが問題にしているのは、「どの道具が役に立つのか」という機能主義的な解釈ではない。そうではなくて、ある身振りが繰り返されるためには、その運動や静止の繰り返しが他の運動や静止の繰り返しと互いに支え合わなければならないということである。石包丁を製作する身振りが農耕社会において繰り返されるのは、穂の落ちにくに稲や麦の再生産、及び、それを収穫する人々の身振り、それらの運動や静止が互いに相手の繰り返しを支え合っているからである。それだけではない。その収穫された稲や麦が貯蔵可能であるが故に、その収穫の身振りの繰り返しはそれを保管し再分配する身振りの繰り返しと互いに支え合っている。また、その石器製作の身振りとその収穫の身振りの繰り返しは、他の部落との交易の身振りの繰り返しとも互いに支え合っている。更に、その石器製作の身振り、その収穫の身振り、その保管や再分配の身振り、そして、その交換の身振りの繰り返しは、婚姻制度(即ち、人々を再生産する仕方)における様々な身振りの繰り返しとも互いに支え合っている。石器製作の身振りに限らず、ある身振りがその社会において繰り返されるのは、その社会における様々な運動や静止が互いに相手の繰り返しを支え合っているからである。
そして、こうした身振りの繰り返しがなされるのは、その社会に固有の記号系がそれらの物体や出来事にその記号内容を与えるからである。逆に、そうした記号系が人々に共有されるのは、その身振りが人々の間で繰り返されるからである。例えば、石核に「刃」をもたらす内包量と外延量のシークエンスであるが、もしもそれらの内包量と外延量が「=0」以外の、それに固有の値を既に持っているのならば、それはひとつの記号系である。その記号系が人々に共有されるとき、その内包量と外延量を持つ石塊は単なる石の塊ではなく、やがて石器になるはずの「石材」という記号内容を帯びる。また、その石材に打撃を加える、その内包量と外延量を持つ石塊も、その石器を作るための「道具」という記号内容を帯びる。また、その道具の打撃から生じた内包量と外延量も「刃」という記号内容を帯び、その刃を持つ石塊も「石器」という記号内容を帯びる。それだけではない。その石材を打撃する身振りは、他の内包量と外延量を持つ身振りと区別されて、「その石器を作製する身振り」という記号内容を帯びる(注5)。同様にして、その社会で繰り返されるすべての身振りには、それに固有の記号系がある。それらの記号系が人々に共有されることと平行して、社会はその記号内容を帯びた物体や出来事から構成される。また、そうした物体や出来事の運動や静止が互いに相手の繰り返しを支え合うことと平行して、人々はそれらの記号系を共有する(注6) 



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