微粒子の感覚学 § 12


もう一度、読んでみよう。

古池や蛙飛びこむ水の音

これはあまりにもよく知られた俳句であり、その線状連結はただ単に「古池に蛙が飛び込んで水の音がした」という出来事を叙述したものではない。この文を発声できる者にとって明らかなことは、それが所謂「五七五」という音節のリズムを持っているということである。それでは、この俳句と「古池に蛙が飛び込んで水の音がした」という文の違いはそのリズムの有無だけなのだろうか。
既に日本語という記号系を持つ私たちにとって、諸音節を実際に線状連結することはその意味体系がもたらす分割線に沿って、私たちの精神と平行する広がりに切断を導入することである。

古池や

 諸音節をそう線状連結するだけで、私たちの有限な広がりから、その意味と平行する微粒子群の広がりが切断される。その運動や静止が繰り返されることによって、私たちの精神はその意味を理解する。しかし、私たちが感じているのはその意味を成立させる内包量と外延量ばかりではない。私たちはそれらとは異なる内包量と外延量を感じる。それはその微粒子群の相互作用域において、様々な微粒子たちの運動や静止がなされているからである。確かに、それらの内包量と外延量のほとんどはその値がたちまち「=0」になってしまうため、私たちにはどうすることも出来ない。しかし、それらの運動や静止の中に反復するものや繰り返されるものがある場合、私たちはそうした感覚を切断することによって、その値が「=0」にならない内包量と外延量を持つことが出来る。

                   蛙 飛びこむ

 「蛙」という言葉、「飛びこむ」という言葉のそれぞれが「古池や」という言葉と同じく、私たちの有限な広がりに切断を導入する。そして、その切断によって、私たちはそれぞれの意味を成立させるものとは異なる内包量と外延量を感じる。「蛙」と「飛びこむ」を線状連結することは、それらの中で「=0」以外の値を示す内包量と外延量どうしを連結関係や切断関係に置くことである。つまり、それらの言葉を線状連結させることによって、それらの内包量あるいは外延量がその値を変えるのならば、それはそれらを連結関係に置くことである。しかし、そうすることによって、一方の内包量と外延量の値が「=0」に向かうのならば、それはそれらを切断関係に置くことである。それぞれの言葉の持つそうした内包量と外延量は一つとは限らない。私たちはそれらの言葉を線状連結させることで、それぞれが持つ複数の内包量と外延量を様々な連結関係や切断関係に置き、その内包量あるいは外延量の値を「=0」から「=最大」の間で変化させる。こうして、「蛙」と「飛びこむ」の非意味的な内包量と外延量は、それらの言葉が「蛙飛びこむ」という具合に線状連結されることによって、その値を変化させる。

  水 の 音

 「水」と「音」それぞれの非意味的な内包量と外延量も同様である。即ち、それらの内包量と外延量は、それらの言葉が「水の音」という具合に線状連結されることによって、その値を変化させる。なるほど、日本語の文法規則からすれば、一方は「主部+述部」の関係にあり、主部は「名詞」、述部は「動詞+動詞」である。他方は「修飾語+被修飾語」の関係にあり、修飾語は「名詞+助詞」、被修飾語は「名詞」である。しかし、こうした違いは叙述の意味に関わるものでしかない。非意味的な内包量と外延量の連結関係や切断関係においては、主部であれ述部であれ、修飾語であれ被修飾語であれ、単語であれ句であれ、また、その単語あるいは句の品詞がどのようなものであれ、それらの言葉の線状連結がもたらす変化に応じて、それらの非意味的な感覚と平行する微粒子群どうしの相互作用がどのようなものになるのかが問題である。なぜならば、その相互作用によって、微粒子たちの運動や静止が繰り返されるようになることもあれば、反復するようになることもあるからである。既にみたように、意味的な内包量と外延量の連結・切断関係によって、その感覚の多と平行する微粒子群の運動や静止が繰り返されるようになった。そのとき、私たちの精神はその音韻体系や記憶とともに、それらとは異なる意味体系を思考するようになった。今回、その微粒子群の運動や静止が繰り返されるか反復するとき、私たちの精神はその意味体系や非意味的な感覚の反復あるいは繰り返しとともに、それらとは異なるものを思考するようになる。
「蛙飛びこむ」においても、「水の音」においても、それぞれの節の非意味的な内包量・外延量の連結関係や切断関係だけでは、そうした反復や繰り返しを生起させることが出来ない。また、「古池や」の非意味的な内包量・外延量は、その節だけでは、何らかの連結関係や切断関係をなすべき、他の非意味的な内包量・外延量を持たない。しかし、この句全体の線状連結においては、その非意味的な内包量・外延量が「蛙」その他すべての言葉の非意味的な内包量・外延量と何らかの連結関係や切断関係をなしている。また、そこでは「蛙」の非意味的な内包量・外延量も、「飛びこむ」の非意味的な内包量・外延量ばかりでなく、「古池や」その他すべての言葉の非意味的な内包量・外延量と何らかの連結関係や切断関係をなしている。「飛びこむ」「水」「音」に関しても同様である。それらの連結関係や切断関係は、それらの感覚と平行する微粒子群どうしを互いに相手の相互作用域に置く。そして、その相互作用がそこを占める微粒子たちの運動や静止に反復をもたらすとき、私たちの精神はその微粒子群と平行する感覚に「美しさ」を感じる。ところで、その微粒子群は微粒子以外のいかなる構成要素も持たない。それ故、この句が美しいとするのならば、それはその意味が美しいのでも、そのリズムが美しいのでもない。そうではなくて、それらの構成体とともにある、その最単純な感覚が美しいのだ。




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