微粒子の感覚学 § 13


美的感覚をともなう言葉は一般に「詩」と呼ばれる。詩作とは次の四つの過程を繰り返すことである:
1. ある言葉を選択し、意味体系のもたらす分割線に沿って、私たちの精神と平行する広がりから、その言葉の意味と平行する微粒子群の広がりを切断すること。その切断にともない、その微粒子群の相互作用域における微粒子たちの運動や静止が非意味的な感覚として思考される。
2. 私たちの精神と平行する広がりから、その非意味的な感覚と平行する微粒子群の広がりを切断すること。その切断によって、非意味的な内包量と外延量が与えられる。
3. それらの内包量と外延量を連結関係や切断関係に置くことによって、それらの微粒子群の相互作用域における微粒子たちの運動や静止に反復をもたらすこと。
4. 私たちの精神に既に与えられている内包量と外延量がそうした連結関係や切断関係をなさない場合、別の言葉を新たに選択すること。(1.へ戻る。)
言葉は繰り返されるものであるが、詩は反復するものである。それは個体間でも言えることである。言葉はその音韻の連結・切断関係とともに、その意味の連結・切断関係が個体間で共有されることによって繰り返された。一方、詩が反復するとき、その意味の連結・切断関係は共有されるが、その非意味の連結関係や切断関係が共有されることはない。異なる個体が同じ言葉を切断したとしても、その非意味的な内包量と外延量はそれらの個体ごとに異なる。それはそれぞれの非意味的な感覚と平行する微粒子群の運動や静止が異なるからである。それ故、ある個体が言葉の音声どうしをある仕方で線状連結することによって、それらの非意味的な内包量と外延量が連結関係や切断関係をなすとき、その個体と言語を共有する別の個体が、同じ言葉の音声どうしを同じ仕方で線状連結したとしても、それらの非意味的な内包量と外延量が連結関係や切断関係をなすとは限らない。また、それらが何らかの連結関係や切断関係をなしたとしても、それがもう一方の個体と同じものになるとは限らない。従って、ある音声の線状連結が一方の個体において美的感覚をともなうとしても、それと同じ音声の線状連結が他方の個体において美的感覚をともなうとは限らない。それらの個体が言語を共有する以上、その線状連結の意味はそれらの個体間で異ならない。それにも関わらず、一方の個体にとって詩であるものが、他方の個体にとっては単なる言葉に過ぎないということもあるのだ。
 詩における音声の線状連結はそれを読む者の精神に何らかの非意味的な内包量と外延量を与える。しかし、その内包量と外延量が微粒子たちの運動や静止に反復をもたらす連結関係や切断関係をなすとは限らない。従って、一方の個体にとって詩であるものが他方の個体にとっても詩であるためには、その音声の線状連結が他方の個体の精神に非意味的な内包量と外延量を与え、かつ、その内包量と外延量が微粒子たちの運動や静止に反復をもたらす連結関係や切断関係をなさなければならない。ところで、内包量と外延量の連結関係や切断関係は、その感覚と平行する微粒子群どうしの構成関係をもたらすものである。従って、詩における非意味的な内包量と外延量の連結関係や切断関係が微粒子たちの運動や静止に反復をもたらすということは、その感覚と平行する微粒子群どうしの構成関係がその微粒子たちの運動や静止を反復させるということである。一方、非意味的な内包量と外延量の連結関係や切断関係の中に、微粒子たちの運動や静止に反復をもたらさないものがあるということは、その感覚と平行する微粒子群どうしの構成関係は微粒子たちの運動や静止を反復させるものではないということである。
 微粒子たちの運動や静止を反復させる構成関係とはいかなるものであるのか。その構成関係は、微粒子群どうしがそれをなす限りにおいて(というのは、それをなし得ない微粒子群どうしの組み合わせもあるからであるが)、その相互作用域における微粒子たちの運動や静止(それはいつも同じというわけではない)を反復するものである。今、一方の個体の広がりに微粒子群abc…があり、他方の個体の広がりにそれらとその運動や静止を異にする微粒子群αβγ…があるとする。abc…とαβγ…が同じ構成関係によって構成されるとき、だからと言って、それぞれの相互作用域における微粒子たちの運動や静止が同じものになるわけではない。なるほど、同じ構成要素が同じ構成関係に置かれるのならば、その構成体における相互作用も同じものとなる。しかし、同じ構成要素でも異なる構成関係に置かれるのならば、その構成体における相互作用が同じものになるとは限らない。また、異なる構成要素が同じ構成関係に置かれたとしても、その構成体における相互作用が同じものになるとは限らない。ところで、abc…とαβγ…はその運動と静止を異にする。従って、それらが同じ構成関係によって構成されたとしても、それぞれの相互作用域における微粒子たちの運動や静止が同じものになるとは限らない。しかし、それにも関わらず、その構成関係がなされる限りにおいて、それらの運動や静止のいずれもが反復するのだ。微粒子たちの運動や静止を反復させる構成関係とはそうしたものである。従って、微粒子群どうしがその構成関係をなし得るのならば、その相互作用域における微粒子たちの運動や静止がどのようなものであれ、それらは反復するということである。
 詩の線状連結がなす非意味的な内包量と外延量の連結関係や切断関係は、その詩を創作した個体(詩人)の広がりにそうした構成関係をもたらす。従って、その線状連結がそれを読む個体に何らかの非意味的な内包量と外延量を与えるとき、その感覚と平行する微粒子群どうしが詩人のそれと同じ構成関係をなすのならば、その相互作用域における微粒子たちの運動や静止は反復する。このとき、その個体はその微粒子群と平行する感覚に美しさを感じる。ところで、その個体に与えられた非意味的な内包量と外延量は、その詩人に与えられたそれらとは異なる。従って、その個体の相互作用域における微粒子たちの運動や静止が、その詩人の相互作用域における微粒子たちの運動や静止と同じものになるとは限らない。異なった運動や静止をなす微粒子群と平行する感覚は異なったものになる。それ故、その個体がその言葉の構成体とともに思考する最単純な感覚は、その詩人が同じ言葉の構成体とともに思考する最単純な感覚と必ずしも同じものではない。
 一方、微粒子たちの運動や静止を反復させる構成関係の中には、同じ運動や静止を反復させるものもある。つまり、その構成関係をなす微粒子群の運動や静止の違いにも関わらず、その相互作用域における微粒子たちの運動や静止が同じものになるということである。詩の非意味的な内包量と外延量の連結関係や切断関係がそうした構成関係をもたらすものであるとき、それを読む個体の広がりにおいてその構成関係がなされるのならば、その個体の相互作用域における微粒子たちの運動や静止は、その詩人の相互作用域における微粒子たちの運動や静止と同じものになる。このとき、その個体が思考する美的感覚は、その詩人が思考する美的感覚と同じものになる。
 詩人とその詩を読む個体との間で、その最単純な感覚が同じものになろうと、異なったものになろうと、美的感覚が反復していることに変わりはない。一方、その個体が自らの広がりに切断を導入せず、それ故、その詩の線状連結がいかなる非意味的な内包量・外延量も与えない場合、または、その個体が自らの広がりに切断を導入し、それ故、その詩の線状連結が何らかの非意味的な内包量・外延量を与えるのだが、その感覚と平行する微粒子群どうしが詩人のそれと同じ構成関係をなさない場合、その個体の相互作用域における微粒子たちの運動や静止が反復することはない。このとき、その個体は美的感覚を欠いた単なる言葉を思考するだけである。 



 
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