微粒子の感覚学 § 11


「何が」と「どうした」に分節された出来事はもはやその具体的な記憶ではない。先ず、私たちは出来事の記憶から諸感覚s1,s2,s3,…を切断する:



次に、私たちはそれらの感覚を音声の分節体の要素v1,v2,v3…と連結し、記憶の枠σ1,σ2,σ3,…に分類する:




この出来事の分析と感覚の分類が繰り返されることによって、私たちの精神にストックされる記憶の枠の集合Σはその個数を増やしてゆく。次に、私たちはこの集合Σの中から、その出来事において非線状に連結する感覚s1,s2,s3,…それぞれが収められている記憶の枠σ1,σ2,σ3,…を選択する:



この選択された記憶の枠の集合{σ1,σ2,σ3,…}は集合Σの部分集合である。ところで、記憶の枠どうしは、出来事から切断された感覚どうしとは異なり、既に切断関係に置かれている。従って、集合Σから部分集合を選択することは、ただそれだけで、その要素である記憶の枠を他の記憶の枠とともに切断関係に置くことである:

こうして、他の部分集合ではなく、{σ1,σ2,σ3,…}がその出来事の「何が」として分節される。
記憶の枠には内包量を同じくする感覚群が集められるだけである。従って、それぞれの記憶の枠は自らに固有の内包量q1,q2,q3,…以外にいかなる内容も持たない。それ故、そうした記憶の枠どうしを切断関係に置くことは、それらの内包量どうしを比較・対照することになる:


ところで、それらの記憶の枠を連結させたもの(即ち、σ1‐σ2‐σ3‐…)全体の内包量は出来事の内包量と一致しない。なぜならば、それらの記憶の枠に対応する感覚はその出来事から恣意的に切断されたものに過ぎず、従って、それらだけで出来事がくみ尽くされてしまうことはないからである。「何が」ばかりでなく、それがどうしたのかを捉えなければ、出来事そのものを捉えたことにはならない。それ故、私たちはそのために必要な感覚を出来事から更に切断してこなければならない。そして、その感覚を分類し、場合によっては「整理棚」を新たに増設し、そこから必要な記憶の枠を選択し、既に連結されているそれらに加えなければならない:



この更なる出来事の分析と感覚の分類もまた、それらが繰り返されることによって、集合Σの個数を増やしてゆく。ところで、そこで連結される記憶の枠が同じものであるとしても、その連結が全体として持つ内包量は必ずしも出来事の内包量と一致しない。なぜならば、その連結全体の内包量はそれらの記憶の枠どうしをどのように連結するのかに応じて異なったものとなるからである。今、連結σ1‐σ2‐σ3‐σ4‐…が全体として持つ可能性のある内包量をq1,q2,q3,…とするのならば、それぞれの内包量に対応する連結の仕方m1,m2,m3,…があることになる:


 
出来事の具体的な記憶から「どうした」を分節するためには、それらの異なる連結の仕方を互いに切断関係に置かなければならない:



このとき、出来事の内包量がq1であるのならば、他の連結の仕方m2,m3,…ではなく、それと内包量を同じくする連結の仕方m1がその出来事の「どうした」として分節される。
出来事の具体的な記憶から「何が」と「どうした」を分節するということは、以上のような仕方で内包量どうしを比較・対照することに他ならない。ところで、記憶の枠は自らに固有の内包量以外のいかなる内容も持たない。従って、「何が」と「どうした」に分節された出来事もまた、そのように比較・対照された内包量どうしの関係以外のいかなる内容も持たない。つまり、その内容は出来事の具体的な記憶でもなく、出来事を構成する諸感覚の記憶でもなく、それぞれの感覚の持つ外延量や内包量でもない。それはこの分節化を通じての、内包量どうしの関係の概念である。即ち、記憶の枠それぞれが持つ内包量qどうしの違い、及び、記憶の枠の連結が全体として持つ内包量qどうしの違い、そうした内包量どうしの違いのすべてがその概念である。私たちが「意味」と呼ぶところのものはそうした概念である。従って、意味は一でもなければ、統一されてもいない。それは内包量どうしのそのような違いであり、それらの内包量すべてからなる多であり、かつ、そうしたものとして私たちの間で繰り返される。
記憶の枠どうしを連結するとき、それぞれの枠は音声の分節体によって既にインデックスされている:


しかし、記憶の枠とは異なり、音声の分節体は線状に広がる存在である。それ故、記憶の枠どうしの連結をそのままで音声の分節体に変換することは出来ない。その変換ためには何らかの規則が必要である。ところで、記憶の枠どうしを連結させるやり方には様々なものがある。従って、その変換規則はそうした違いに対応したものでなければならない。線状連結の規則はこの要請を満たしている。その規則によって、出来事と内包量を同じくする仕方での連結m1が音声の分節体の線状連結に変換される(以下のυ1,υ2,υ3,υ4はv1,v2,v3,v4が線状に連結されたものである):



こうして、その線状連結が「何が」と「どうした」を連結させた意味の表現となる。ところで、私たちはこの「何が‐どうした」を出来事についての「叙述」と呼ぶ。従って、意味は先ず叙述の意味である。叙述の意味はある音声の分節体の線状連結全体に対応している。私たちは線状連結の規則を逆方向に辿ることによって、その全体から特定の部分(例えば、υ1)を切断することが出来る。これと平行して、叙述の意味の全体から、その線状連結の部分と連結する記憶の枠(即ち、σ1)に対応する部分(μ1)が切断される:
 


同様にして、叙述の意味全体から、線状連結υ2,υ3,υ4,…と連結する記憶の枠σ2,σ3,σ4,…に対応する部分μ2,μ3,μ4,…が切断される。それらの部分こそ、線状連結υ1,υ2,υ3,υ4,…の「語彙」と呼ばれるものである:


例えば、私たちが「古池や蛙飛びこむ水の音」注18という文を読むとき、「古池」「蛙」「飛びこむ」「水」「音」という語彙がその叙述の意味以前に存在しているわけではない。「古池」という語彙は、私たちが「フルイケヤカワズトビコムミズノオト」という音節束全体から、線状連結の規則を逆に辿り、要素「フルイケ」を切断した後に始めて生じるものである。一方、この切断以前に存在しているのは、その音節束によってインデックスされている記憶の枠、及び、そこに収められるべき感覚に共通する内包量である。このことは「蛙」「飛びこむ」「水」「音」に関しても同様である。
私たちがその線状連結を聴取するとき、それが叙述する出来事の分節化を通して、それらの記憶の枠の内包量が他の記憶の枠の内包量と比較・対照され、かつ、それらの連結全体の内包量どうしが比較・対照される。このとき、「フルイケ」「カワズ」「トビコム」の記憶の枠はその出来事の「何が」を構成し、一方、「ミズノオト」の記憶の枠はその「どうした」を構成する。また、「フルイケ」と「カワズ」はその出来事の部分をなす出来事「古池に蛙が飛び込んだ」の「何が」を構成し、一方、「トビコム」の記憶の枠はその「どうした」を構成する。それ故、先ずは「フルイケ」あるいは「カワズ」の内包量が他の記憶の枠の内包量と比較・対照される。この比較・対照によって、その内包量と他の内包量との違いが思考される。次に、「フルイケ‐カワズ‐トビコム」の連結全体の内包量どうしが比較・対照される。その際、「トビコム」の内包量もまた他の記憶の枠の内包量と比較・対照されることになる。この比較・対照によって、「古池に蛙が飛び込んだ」という出来事の内包量と他の出来事(「古池が蛙に飛び込んだ」「古池から蛙が飛び出した」等)の内包量との違いが思考される。次に、「フルイケ‐カワズ‐トビコム‐ミズノオト」の連結全体の内包量どうしが比較・対照される。その際、「ミズノオト」の内包量もまた他の記憶の枠の内包量と比較・対照されることになる。この比較・対照によって、「古池に蛙が飛び込んで水の音がした」という出来事の内包量と他の出来事(「水の音がして古池に蛙が飛び込んだ」「古池に蛙が飛び込んでも音がしなかった」等)の内包量との違いが思考される。こうした内包量どうしの違いのすべてがその叙述の意味である。
線状連結の規則を順方向に辿ることと逆方向に辿ることは同じ道を行ったり来たりすることではない。私たちはその規則を逆方向に辿ることによって、先ず、その線状連結全体を「フルイケヤカワズトビコム」と「ミズノオト」という二つの部分に分節する。このとき、一方では「ミズノオト」の内包量と他の記憶の枠の内包量との違いが、他方では「フルイケ‐カワズ‐トビコム」の連結における内包量どうしの違い(この違いにはそれらの内包量と他の記憶の枠の内包量との違いばかりでなく、それらの連結全体の内包量どうしの違いも含まれる)が、「フルイケ‐カワズ‐トビコム‐ミズノオト」の連結における内包量どうしの違い(この違いにもまた、それらの内包量と他の記憶の枠の内包量との違い、及び、それらの連結全体の内包量どうしの違いが含まれている)から切断される。この切断によって初めて、「フルイケヤカワズトビコム」に関する内包量どうしの違いがその部分的な出来事を叙述する意味となり、また、「ミズノオト」に関する内包量どうしの違いがその言葉の意味となる。次に、前者においては、その線状連結全体が「フルイケヤカワズ」と「トビコム」という二つの部分に分節される。このとき、一方では「トビコム」の内包量と他の記憶の枠の内包量との違いが、他方では「フルイケ‐カワズ」の連結における内包量どうしの違いが、「フルイケ‐カワズ‐トビコム」の連結における内包量どうしの違いから切断される。この切断によって初めて、「フルイケヤ」「カワズ」「トビコム」それぞれに関する内包量どうしの違いがそれらの語彙となる。また、後者においては、その線状連結全体が「ミズノ」と「オト」の二つの部分に分節される。このとき、一方では「ミズ」の内包量と他の記憶の枠の内包量との違いが、他方では「オト」の内包量と他の記憶の枠の内包量との違いが、「ミズ‐オト」の連結における内包量どうしの違いから切断される。この切断によって初めて、「ミズノ」と「オト」それぞれに関する内包量どうしの違いがそれらの語彙となる。
このように、線状に広がる存在をその表現とし、かつ、意味をその内容とする記号系を私たちは「言語」と呼ぶ。




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