微粒子の感覚学 § 10


私たちは先に、「長さ」「高さ」「強さ」などの音楽的要素によっても、言語に必要な「音節」を揃えることが出来るのをみた。では、その人工的な分節体と所謂「自然言語」の分節体の違いはどこにあるのだろうか。
はっきりしていることは、記憶の分節化の有無である。言語においては、出来事の記憶が「何が」と「どうした」に分節されている。「何が」を成り立たせるのは、私たちに記憶されている感覚のうち、出来事においてどうにかするのはいずれの感覚かという区別と選択である。私たちに記憶されている諸感覚の集合をSとすると、その要素は全部でn(S)個ある。出来事を構成する感覚が、例えば「古池」と「蛙」であるのならば、それらの感覚はそのn(S)個ある感覚のうちの二つである。私たちは先ず、それらの感覚を他のすべての感覚とともに切断関係に置かなければならない:

   ・・・|古池|蛙|・・・

そうすることによって、それらの感覚は互いに、また、私たちの記憶する他のすべての感覚から区別される。私たちはそのように区別されている感覚群の中から、{古池,蛙}という組み合わせを選択するわけである。こうして、その出来事の記憶の連続体から「何が」が分節される。
一方、「どうした」を成り立たせるのは、「何が」を成り立たせている諸感覚が出来事においてどのように連結するのかという区別である。その出来事の「何が」を成り立たせている組み合わせが{古池,蛙}であるのならば、それらの連結の仕方には「古池に蛙が飛び込んだ(m1)」「蛙が古池から出て来た(m2)」「蛙が古池に佇んでいた(m3)」など、様々なものがある。このとき、それらの連結の仕方どうしを切断関係:

に置くことによって、それらを互いに区別することが可能になる。そして、その出来事における連結の仕方が「m1」であるのならば、その連結の仕方をそれ以外の連結の仕方から区別することで、その出来事の記憶の連続体から「どうした」が分節される。
 ここで、私たちの人工的な分節体を使って、次のような思考実験をしてみるのも面白い。即ち、その音楽的要素からなる「音節」を適当に連結させて、いくつかの束を作る。例えば、高音‐強音‐速音の束(n1)、中音‐平音‐常音の束(n2)、低音‐弱音‐遅音の束(n3)という三つの楽音束を作る。そして、楽音束n1が鳴っているときには「古池に蛙が飛び込んだ」という出来事(e1)を想起し、楽音束n2が鳴っているときには「蛙が古池から出て来た」という出来事(e2)を想起し、楽音束n3が鳴っているときには「蛙が古池に佇んでいた」という出来事(e3)を想起する。この聴取と想起の組み合わせを十分に繰り返すことで、

 という連結・切断関係を打ち立てることが出来る。それぞれの楽音束と具体的な記憶の連結(n1‐e1、n2‐e2、n3‐e3)だけであるのならば、それはトラウマの場合と何ら違いはない。しかし、この場合、それらの楽音束どうしはあらかじめ「n1|n2|n3」という切断関係を形成している。このように切断関係におかれた楽音束は、私たちの記憶に対して、言わば「整理棚」のインデックスの役割を果たす。従って、n1の「棚」に入れられるのは出来事e1ばかりではない。もしもそれに類似した別の出来事が記憶されるのならば、それもまたそこに収められる。n2、n3の「棚」に関しても同様である。ところで、それぞれの「棚」に収められる出来事どうしの類似性は所謂「分析的な」ものではない。例えば、n1の「棚」に収められる諸々の出来事は、「古池に蛙が飛び込んだ」という共通の意味を持つわけではない。そうではなくて、それらの出来事に共通するものは、私たちの神経に粗略化された内包量である。つまり、n1の「棚」に納められるのは、e1と同じ内包量を持つ出来事なのだ。従って、楽音束n1と連結されるものはもはや出来事e1の具体的な記憶ではない。それはn1の「棚」そのものである(たとえそこに収められているのが出来事e1でしかないとしても)。
 しかし、この人工的な分節体はいまだ言語ではない。なぜならば、その内容が「何が」と「どうした」に分節されていないからである。なるほど、その記号系は私たちに記憶された出来事を「整理棚」n1,n2,n3,…に分類する。しかし、このとき、それぞれの出来事はひとつの内包量として捉えられているのであり、それらを分類することはそれぞれの出来事を分析することではない。即ち、ある出来事において、いかなる感覚が、どのように連結しているのか、ということが問われているわけではない。
ミミズを食べたヒキガエルは、その直後ミミズとある程度形の似ているマッチ棒に飛び掛るようになる注14。これはヒキガエルがその反応を引き起こす刺激となる対象について記憶したということである。しかし、これはまたヒキガエルにとって、ミミズも、マッチ棒も、その神経に粗略化された内包量に違いがないということである。ヒキガエルとミミズの出会い、ヒキガエルとマッチ棒の出会いはそれぞれ別の出来事であり、ヒキガエルの精神における「ミミズ」と「マッチ棒」の感覚は互いに異なる。また、ヒキガエルとミミズが再び出会うとき、一度目の出会いと二度目の出会いはそれぞれ別の出来事であり、ヒキガエルの精神における一方の「ミミズ」と他方の「ミミズ」の感覚は互いに異なる。しかし、ヒキガエルの神経はそれらの違いを一切無視して、それを同じ内包量として感覚する。私たちがインデックスn1,n2,n3,…の下に出来事を分類できるのも、このヒキガエルと同じ能力によってである。勿論、ヒキガエルの方はいかなるインデックスも持っていないし、彼らの記憶した出来事をいちいち分類することもない。そもそもヒキガエルのこの能力は刺激‐反応のループにすっかり組み込まれているのであり、その内包量は私たちのように解放されていない。
ヒキガエルの場合、「ミミズ」の内包量も、「マッチ棒」の内包量も、その出来事の内包量のうちに完全に溶け込んでしまい、それら三つの内包量が区別されることはない。ところで、マッチ棒に飛び掛るヒキガエルであっても、ミミズとまったく形の似ていないコインに飛び掛ることはない。このとき、ヒキガエルは「ミミズ」の内包量と「コイン」の内包量を区別したのではなく、「ミミズ」の内包量の溶け込んでいる出来事の内包量と「コイン」の内包量の溶け込んでいる出来事の内包量を区別したのだ。一方、私たちの場合、ある広がりをその広がりの埋め込まれた出来事の広がりから切断することによって、その切断された広がりに固有の内包量を捉えることが出来る。私たちは様々な出来事の内包量ばかりでなく、それらの出来事において連結している様々な感覚の内包量を解放することが出来るのだ。諸感覚の内包量が解放されることによって、楽音束n1,n2,n3,…それぞれにその内包量を同じくする感覚を集めることが可能になる。例えば、n1の「棚」にはあのミミズと同じ内包量の感覚を集め、n2の「棚」にはあの蛙と同じ内包量の感覚を集め、n3の「棚」にはあの…。この分類作業を十分に繰り返すことで、それぞれの楽音束と諸々の感覚を集める記憶の枠との連結・切断関係が打ち立てられる。しかし、この繰り返しは実験室における「刷り込み」のように行われるわけではない。即ち、この感覚の分類作業は出来事の分析作業と連動して繰り返されなければならない。
私たちはいまだはっきりした音声の分節体を持たず、ただ音声の「長さ」「高さ」「強さ」の若干の違いを認識する能力、自らの連続的な広がりに切断を導入する能力、そして内包量と外延量の連結・切断関係を打ち立てる能力を持つのみである。ここから始めよう。私たちは覚醒時あるいは夢幻状態で自らの体験した出来事を誰かに伝えようとする。この伝達の仕方には様々な表現があり得るが、この場合、それはその出来事において何がどうしたのかを表現することである。私たちは先ず、その出来事の広がりに切断を導入して、それをいくつかの感覚に分析する。そして、それらの感覚それぞれをある「長さ」、ある「高さ」、ある「強さ」の楽音束に連結させる。勿論、それらの楽音束それぞれはそれらの感覚と一時的に連結されているだけであり、いまだ分節体をなしていない。しかし、私たちはそれらの楽音束を線状に連結させることによって、その出来事を表現しようとする。ところで、それらの楽音束が連結している諸感覚は、その出来事の「何が」を構成しているに過ぎない。従って、それらの楽音束を線状に並べるだけでは、その出来事を表現したことにはならない。なぜならば、出来事における諸感覚の連結自体は線状をなしておらず、その連結の仕方には様々なものがあるからである。そこで、私たちはそれらの楽音束の並べ方を変えたり注15、それらの楽音束を若干変化させたり注16、それらの楽音束に別の楽音を付加したり注17、それらの楽音束を別の楽音束と連結したりと、様々な工夫をすることで諸感覚の非線状な連結の仕方の違いに対応させる。そして、私たちはそうした楽音束の線状連結の一つを、その出来事の表現として発声する。なるほど、これを聴取した私たちは、その出来事において何がどうしたのかを殆ど理解できない。なぜならば、その楽音束と感覚の連結も、その楽音束の線状連結の規則も恣意的で、一時的なものに過ぎないからである。しかし、それにも関わらず、私たちはその出来事あるいは別の出来事を誰かに伝えようとすることをやめない。
私たちは再び、その出来事の広がりに切断を導入し、それをいくつかの感覚に分析する。ところで、一時的かつ恣意的であるとは言え、諸感覚の中には何らかの楽音束と既に連結しているものがある。それ故、そうした感覚と同じ内包量を持つものに関しては、その楽音束の「棚」に分類し、一方、既存の「棚」に分類することの出来ないものに関しては、新しく別の楽音束と連結する。勿論、それらの感覚が内包量を同じくするのかしないのかということもまた恣意的なものである。しかし、ここで行われているのは既に感覚を分類することである。それ故、諸感覚を楽音束と連結させて「何が」と「どうした」を分節することは、単にその線状連結をその出来事に対応させているのではなく、私たちの記憶に登録されている「棚」どうしを切断関係に置くことである。そして、その線状連結を諸感覚の非線状な連結の仕方に対応させて「何が‐どうした」を構成することは、その「棚」どうしの連結を互いに切断関係に置くことである。その際、線状連結に施される工夫は、既存のもので賄える場合にはそれを利用し、それで賄えない場合には新しく開発される。なるほど、その発声を聴取しても、私たちは依然として、その出来事において何がどうしたのかを理解できない。なぜならば、その楽音束と記憶の枠の連結も、その楽音束の線状連結の拡張された規則もいまだ恣意的で、一時的なものに過ぎないからである。しかし、それにも関わらず、私たちはやはりその出来事あるいは別の出来事を誰かに伝えようとすることをやめない。これはつまり、私たちの間で、様々な出来事の分析作業とそれらの出来事から切断される諸感覚の分類作業が繰り返されるということである。そして、この二重の作業の繰り返しこそ、私たちの「整理棚」に集められる感覚群の恣意性を徐々に排除し、一方、それらの楽音束がその「整理棚」のインデックスとしての機能を十分に果たせるように、その音声の分節体を整備する。それ故、楽音束と記憶の枠の連結はやがて十分な耐久性を獲得する。こうして、楽音束の分節体、楽音束と記憶の枠の連結、及び、楽音束の線状連結の規則が打ち立てられる。このとき初めて、私たちはその音楽的な要素からなる分節体によって、様々な出来事を表現し合えるようになる。




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