微粒子の感覚学 § 4


 個体の情動世界はその物体の内部と外部に広がっている。個体は自らの広がりの様々な場所で、そこに宿る様々な情動を感じる。しかし、個体の精神はそのように受動するばかりではない。精神は思考の能動的様態であり、即ち思考するものである。故に、精神にはそれが思考する内容がある。私たちは精神の思考する内容を「感覚」と呼ぶ。それ故、感覚もまた思考の能動的様態であり、精神は諸感覚から構成されている。即ち、感覚は精神の構成要素であり、特にその思考の構成要素である。ところで、情動にはその質と強さがある。そして、ある質の情動には様々な強さがある。例えば、痛みの情動には「しくしくと痛む」から「激痛」まで様々な強さがある。痛みの感覚とは、それらすべての痛みの情動を潜在させるものである。一方、痛みの情動とは、その痛みの感覚からその都度現実化するものである。痛みばかりではない。精神の感じる(即ち、受動する)情動は、その精神の思考する(即ち、能動する)感覚から、その都度生じてくる現実態である。一方、その感覚はそうしたすべての情動を潜在態として持つ。しかし、このことは感覚が精神の実際に感じた情動の総和であるということでもなければ、それらの情動からその強さを剥奪した抽象であるということでもない。そうではなくて、精神がある感覚を思考するとき、ある強さの情動を実際に感じたことがあろうとなかろうと、また、別の強さの情動をこれから感じることがあろうとなかろうと、その感覚はあらゆる強さの情動を潜在的に共存させているということである。
ここで色の情動について考えてみよう。私たちが虹を見るとき、それを何色に区別するだろうか。もしも赤・橙・黄・緑・青・藍・紫の七色に区別するのならば、それぞれの色が更に様々な強さに区別される。例えば、青という情動の場合、緑と藍の両方からもっとも遠いところの青はその強さが最大であり、逆に、緑に近づけば近づくほど、また、藍に近づけば近づくほど、青の強さは小さくなる。このことは他の色の情動に関しても同様なので、青の強さが最少になるのは緑や藍の強さが最小になる一歩手前であり、そして、青が緑や藍の最小に達したとき、その強さは「=0」になる。青の感覚とはそれらすべての青の情動を内包するものである。しかし、もしも私たちが虹を赤・緑・紫の三色にしか区別しないのならば、例えば、赤の感覚は先の赤の情動のすべてばかりでなく、橙の情動のすべてと黄の情動の半分を内包することになる。逆に、七色よりも細かく区別するのならば、それぞれの感覚が持つ情動の最大と最小の幅はより狭くなる。私たちがどのような色の感覚を思考するのかに応じて、その感覚の内包する情動も異なったものとなる。
これらの感覚は情動からその強さを剥奪した抽象ではない。例えば、青の感覚を思考することは、それら様々な青の情動に共通する質を引き出すことではない。また、その感覚は赤その他の色との関係概念でもないし、「青」という言葉の意味でもない。その感覚は緑と藍の最少の情動に縁取られた、その強さが最大から最少までの、それら青の情動のすべてを内包するものである。しかし、それはそれらの情動を現実態として持っているということではない。そうではなくて、その感覚において、それらの情動のすべてが潜在態として共存しているということである。一方、それらの情動はその感覚における潜在態が現実化したものである。なるほど、この場合、感覚が精神の実際に感じた情動の総和になっていると言えなくもない。なぜならば、私たちが虹を見ながら青の感覚を思考するとき、その精神はそれらの青の情動のすべてを実際に感じているからである。しかし、これとて厳密にはそうではない。なぜならば、青の感覚が潜在させている情動は虹のそれらに限定されないからである。その感覚は壁のペンキの青や絵の中の青ばかりでなく、ランボーが発明した母音の青注10、音楽家たちが創造した音調の青、そして、生まれつき目の見えないひとたちが見ている青などを潜在させている。
感覚には次の三つのものがある:
1.      繰り返されることなく、速やかに消滅してしまうもの、
2.      繰り返されるが、その繰り返しからの偏差が不可避的に生じるため、徐々に減衰し、やがて消滅するもの、
3.      繰り返されるばかりでなく、その繰り返しからの偏差を巻き込んで反復するもの。
 私たちは自らの広がりに様々な切断を導入し、それらの切断された広がりに固有の内包量と外延量を連結関係や切断関係に置く。それによって、その内包量として現実化している感覚どうしが私たちの思考において構成される。そして、その構成された感覚の多には繰り返されるものとそうでないものとがある。その内包量と外延量の連結関係や切断関係が繰り返されない場合、その感覚の多も繰り返されない。一方、音韻体系の場合、広口音や前舌音等の連結・切断関係が繰り返されることによって、その感覚の多(即ち、母音や子音)も繰り返される。しかし、こうした繰り返しはそこからの偏差が生じることを避けられない。例えば、広口音と狭口音の広がりの切断を繰り返すことは、それらの間に別の口の広がりの音が切断される可能性を常に用意する。それ故、そうした偏差を緩和する何らかの機構を持たない限り、その連結・切断関係が変化してしまうことは避けられない。そのとき、その母音や子音を繰り返すことが不可能になる注11
ところで、その繰り返される感覚の多は、そこで現実化される情動がその連結・切断関係によって制限されている。つまり、広口音や前舌音等の感覚が現実化することの出来る情動は「有」あるいは「無」という内包量でしかない。一方、新しい石器作製技術の発生においては、その感覚の現実化する情動がその内包量と外延量のシークエンスに制限されることはない。そのシークエンスは私たちの身振りに反復をもたらす。例えば、「石で石を垂直に打撃して、刃を持つ石核を作る」というシークエンスによって、「石で何かを打つ」という身振りに様々な偏差を巻き込む反復がもたらされる。このとき、そのシークエンスは繰り返されておらず、「石で石を打つ」という身振りもその反復に巻き込まれた偏差の一つに過ぎない。その広がりが反復するとき、それと平行して、私たちの思考する感覚も反復する。反復する感覚は、繰り返されない感覚のように、ただ一つの情動を現実化するのではない。しかしまた、繰り返される感覚のように、制限された情動を現実化するのでもない。そうではなくて、その感覚は自らが反復することを通じて、自らが潜在させている多種多様な情動のいずれかをそのまま現実化するのだ。なぜならば、身振りの反復が様々な偏差を巻き込むのと平行して、それらの情動が感じられるだけだからである。しかし、それらの情動はそのシークエンスにおいて連結関係や切断関係に置かれている当の内包量ではない。なぜならば、それらの内包量を持つ広がりがその広がりの反復に巻き込まれているため、それらの広がりをその広がりから切断することなど不可能だからである。切断されていない以上、その広がりに固有の内包量を感じることは出来ない。このとき、私たちが感じるのは「何かが生成する」という以外にいかなる質も持たない情動、即ち、生成の情動である。その感覚はそれらの情動がその都度現実化することで反復する。
しかし、石器作製技術の模倣において、こうした情動が感じられることはない。私たちはそのシークエンスにおける内包量と外延量を捉える。即ち、その石材や石具の形状、重さ、質感、その運動の方向と速さ、その石器の形状や質感など。そのシークエンスが繰り返される限りにおいて、それらの内包量として現実化される感覚の多も繰り返される。このとき、もはやその広がりにその繰り返しからの様々な偏差は巻き込まれていない。例えば、「石具による法線方向と接線方向の打撃を適切に配分して、一つの石核から様々な石器を計画的に切り出してゆく」というシークエンスが繰り返されるとき、「石核」から「剥片」へとその重点を移動させることはもはやその思考の偏差ではなく、そのシークエンスの一部をなすに過ぎない。むしろ、このとき、その繰り返しからの偏差を緩和する機構を持たない限り、そのシークエンスはやがて繰り返されなくなるだろう。なぜならば、石塊の形状、重さ、質感にも、それらを打ち合わせる運動の方向と速さにも、その打撃によって生じる石核や薄片の形状や質感にも、様々な内包量と外延量があるからである。




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