微粒子の感覚学 § 3


 情動に従って活動し、その活動によって情動が変化し、その情動に従ってまた活動すること、それは情動と活動の螺旋を形成する。情動の解放された個体であれ、そうでない個体であれ、それらはこの螺旋を形成している点で違いがない。このとき、その螺旋をなす物体には、微粒子たちの運動や静止の活発な部分とそうでない部分とが生じる。精神における知覚は、その活発な部分と平行する感覚である。
私たちはこれまで、人類の例を考察してきた。しかし、動物に限らず、植物や菌類といった生物はおろか、鉱物や金属などの非生物、また、分子、原子、素粒子に至るまで、もしもそれらが第n種物体(n≧0.ただし、最単純物体を第0種物体とする)であるのならば、それぞれがその情動と活動の螺旋を形成する。ところで、第n種物体を類別する仕方には様々なものがある。例えば、単純なものと複雑なもの、純粋なものと混合したもの、生きているものとそうでないものなどである。私たちがここで着目したいのは神経を持つものとそれを持たないものとの類別である。神経を持つ物体はそれを持たない物体とどのように異なっているのだろうか。
神経の秩序は、第一に、その要素どうしの連結である。その要素どうしが連結することによって、ある活動が別の活動に連結され、それと平行して、ある感覚が別の感覚に連結する。これはある活動と平行する感覚が別の感覚と平行する活動に連結することである。


 神経によって感覚と活動が連結されるとき、私たちはその感覚にともなう情動を「刺激」と呼び、その活動自体を「反応」と呼ぶ。物体が反応することによって刺激が変化し、その変化した刺激がその反応を促進するか、あるいは抑制する。こうして、精神を構成する多様な感覚のうちのあるものが、物体のなす多様な活動のうちのあるものとともに、特定の刺激から特定の反応へのループを形成する。従って、このループは情動と活動の螺旋を神経の網で掬えるもののみに粗略化したものである。こうした神経の発生は、その身体における活動の活発さと不活発さの区別の仕方を変化させる。今や、知覚はその螺旋がループ状になった上でのものであり、一方、その螺旋におけるものは「微小知覚」として、曖昧な感覚とともにその個体の無意識の闇に消える。
 第二に、神経の秩序は連結する要素どうしの切断である。連結するのは切断されている要素どうしであり、切断されるのは連結している要素どうしである。ある刺激と連結した反応はその刺激がなくなることによって消える。しかし、その刺激がなくなっていない場合でも、別の連結が生じることによってその連結を切断するのならば、その反応は消える。しかし、更に別の連結が生じることによって、その別の連結が切断されるのならば、もともとの連結が切断されることはなく、従って、その反応も消えることはない。また、連結1と連結2が並列回路を形成するのならば、別の連結が生じることによって連結1が切断されたとしても、連結2が切断されない限りその反応は消えず、あるいは、別の連結が生じることによって連結2が切断されるとしても、連結1が切断されない限りその反応は消えない。連結1を切断する連結と連結2を切断する連結がともに生じない限り、その反応が消えることはない。




 しかし、連結1と連結2が直列回路を形成するのならば、いずれか一方を切断する連結が生じれば、その反応は消える。





並列する連結の数はいくらでも増やすことが出来るし、そのことは直列する連結に関しても同様である。また、並列回路と直列回路を組み合わせて第三の回路を形成することも出来る。こうして、神経の秩序は複雑化してゆく。そして、その秩序が複雑になればなるほど、個体の刺激と反応のループはより多様なものになる。
 しかし、そのループがどれほど多様になろうとも、それが内包量の粗略化であることに変わりはない。即ち、すべての内包量は「=有」か「=無」かのいずれかでしかなくなるのだ。神経の秩序はその要素の連結と切断である。何らかの内包量において神経の要素が連結され、何らかの反応が引き起こされるのならば、その内包量がいかなる程度であろうと(例えば「=小」であろうと「=大」であろうと「=最大」であろうと)「=有」であり、逆に、その内包量において神経の要素が連結されることなく、いかなる反応も引き起こさないのならば、たとえそれが「=0」でなくとも「=無」である。また、何らかの内包量において神経の要素が連結され、それによって他の連結が切断され、何らかの反応が停止されるのならば、その内包量がいかなる程度であろうと「=有」であり、逆に、神経の要素が連結されることなく、その反応が維持されるのならば、たとえそれが「=0」でなくとも「=無」である。
連結1と連結2が並列回路を形成し、かつ、連結3が連結1を切断し、連結4が連結2を切断する場合、ある内包量において連結3が実現したとしても、別の内包量において連結4が実現しないのならば、その反応が停止することはない。このとき、連結4の内包量ばかりでなく、連結3の内包量も「=無」である。逆に、ある内包量において連結4が実現したとしても、別の内包量において連結3が実現しないのならば、連結3の内包量ばかりでなく、連結4の内包量も「=無」である。従って、連結3と連結4がともに実現する限りにおいて、それらの内包量は「=有」となる。
一方、連結1と連結2が直列回路を形成する場合、ある内包量において連結3か、連結4のいずれかが実現するのならば、その反応は停止する。このとき、たとえ一方の連結が実現していなかったとしても、それらの内包量は「=有」である。従って、連結3と連結4がともに実現しないときにのみ、それらの内包量は「=無」となる。
 こうした神経機構が既に構成されている上で、その機構によってもたらされる内包量のあるものがその刺激‐反応のループから解放されるとき、それらの内包量どうしを互いに連結することが可能になる。即ち、ある内包量の「=有」と他の内包量の「=有」を連結することもあれば、ある内包量の「=有」と他の内包量の「=無」を連結することもある。あるいは、ある内包量の「=無」と他の内包量の「=無」を連結することもある。
例えば、私たちの音声であるが、口を大きく開くことで発することの出来る音(広口音)の内包量が「=有」とされ(従って、そうでない音の内包量が「=無」とされ)、唇の形を平たくすることで発することの出来る音(平唇音)の内包量が「=有」とされ(従って、そうでない音の内包量が「=無」とされ)、舌の位置を前にすることで発することの出来る音(前舌音)の内包量が「=有」とされる(従って、そうでない音の内包量が「=無」とされる)のならば、それらの内包量を互いに連結(‐)させることで、

「有‐無‐無」という連結関係による音韻(ア)、
「無‐有‐有」という連結関係による音韻(イ)、
「無‐無‐無」という連結関係による音韻(ウとオ)、
「無‐無‐有」という連結関係による音韻(エ)

を繰り返すことが可能になる。
また、口を小さく開くことで発することの出来る音(狭口音)の内包量が「=有」とされ、唇の形を丸くすることで発することの出来る音(円唇音)の内包量が「=有」とされ、舌の位置を後ろにすることで発することの出来る音(後舌音)の内包量が「=有」とされるのならば、それらの内包量を互いに連結させることで、

「無‐無‐有」という連結関係による音韻(ア)、
「有‐無‐無」という連結関係による音韻(イ)、
「有‐無‐有」という連結関係による音韻(ウ)、
「無‐無‐無」という連結関係による音韻(エ)、
「無‐有‐有」という連結関係による音韻(オ)

を繰り返すことが可能になる。
ところで、唇の形を丸くすることはその形を平たくする神経要素の連結を切断(|)する(唇の形を丸くするとき、それを平たくすることは出来ない)。逆に、唇の形を平たくすることはその形を丸くする神経要素の連結を切断する(唇の形を平たくするとき、それを丸くすることは出来ない)。それ故、円唇音の内包量が「=有」であるときには平唇音の内包量が「=有」になることはない。逆に、平唇音の内包量が「=有」であるときには円唇音の内包量が「=有」になることはない。しかし、円唇音の内包量が「=無」であるとき、平唇音の内包量が「=有」であるとは限らず「=無」の場合もある。逆に、平唇音の内包量が「=無」であるとき、円唇音の内包量が「=有」であるとは限らず「=無」の場合もある。これは広口音と狭口音の場合も同様である。一方、舌の位置は口内の前よりにあるか、後ろよりにあるかのいずれかである。それ故、前舌音の内包量が「=有」のときには後舌音の内包量は「=無」であり、逆に後舌音の内包量が「=有」のときには前舌音の内包量は「=無」である。従って、日本語の「母音」に関しては、

(広口音|狭口音)‐(平唇音|円唇音)‐(前舌音|後舌音)注7

という内包量どうしの連結・切断関係を構成しなければならない。こうして、

ア(a):(有|無)‐(無|無)‐(無|有)、
イ(i):(無|有)‐(有|無)‐(有|無)、
ウ(u):(無|有)‐(無|無)‐(無|有)、
エ(e):(無|無)‐(無|無)‐(有|無)、
オ(o):(無|無)‐(無|有)‐(無|有)。

同じく、呼気の通路を閉じたあと急に開くことで発することの出来る音(破裂音あるいは閉鎖音)、口腔の一部に隙間を作り、そこに呼気を通すことで発することの出来る音(摩擦音)、そして口腔を閉鎖し、呼気を鼻腔に通すことで発することの出来る音(鼻音)は互いに相手の神経要素の連結を切断する。それ故、いずれかの内包量が「=有」であるときには他の内包量はすべて「=無」である。また、唇を使うことで発することの出来る音(唇音)、歯や歯茎と舌を使うことで発することの出来る音(歯舌音)、そして口蓋と舌を使うことで発することの出来る音(口蓋舌音)も同様である。また、声帯を震わせる音(声音)の内包量が「=有」とされるのならば、声帯を震わせない音の内包量は「=無」とされる。私たちの「子音」はこれら互いに切断し合う内包量の連結から成る。ただし、鼻音は声帯を震わせることによってしか発声することが出来ないため、すべて有声音である。また、歯舌音には破裂音でも摩擦音でも鼻音でもない、舌先で歯茎を軽く叩くことで発することの出来る音(叩音)がある。この音も声帯を振るわせることによってしか発声することが出来ないので有声音である。従って、日本語の「子音」に関しては、

(破裂音|摩擦音|鼻音|叩音)‐(唇音|歯舌音|口蓋舌音)‐声音注8

という内包量の連結・切断関係を構成しなければならない。こうして、

カ行子音(k):(有|無|無|無)‐(無|無|有)‐無、
サ行子音(s):(無|有|無|無)‐(無|有|無)‐無、
タ行子音(t):(有|無|無|無)‐(無|有|無)‐無、
ナ行子音(n):(無|無|有|無)‐(無|有|無)‐有、
ハ行子音(h):(無|有|無|無)‐(無|無|有)‐無、
マ行子音(m):(無|無|有|無)‐(有|無|無)‐有、
ラ行子音(r):(無|無|無|有)‐(無|有|無)‐有注9

ヤ行子音(y)は「イ」を子音として使ったものであり、ワ行子音(w)は「ウ」を子音として使ったものである。また、「ン」(n)は母音の伴わないナ行子音である。ガ行子音(g)、ザ行子音(z)、ダ行子音(d)、バ行子音(b)、パ行子音(p)など、それらの子音もまたこの連結・切断関係によって繰り返すことが可能になる。
 

 

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